1 : 関東平野 2023.3.21
縄文時代は、埼玉の奥まで海だった。
このように教科書で勉強したのは覚えている。でも、埼玉って内陸というのは知っていたが、実際にどういう海岸線だったのかは全くイメージできていなかった。そもそも、関東の地名は結構知っているつもりだが、地理的な位置関係は全く知らない。
地図を見ても、関東平野は真っ平にしか表現されていない。国土地理院の等高線の入った地形図でも、建物や道路にじゃまされて等高線が目立たないので、地形の高低感がわからない。
関東平野のような平坦な地形の中の、細かい高低感が視覚的にわかるような地図が出てきたのは、ほんの10年ほど前からである。国土地理院が精密な測量データをwebで公開しはじめた。それが普及したのは個人が作成したシェアウェアの地図ソフトによるところが大きいと私は思う。
10年前は国土地理院も著作権にこだわっていて、そのデータを使うのに制限を設けていたが、今は「国土地理院」というクレジットを表示すれば一部の例外はあるものの特に許諾なしに利用できるようになった。
これを使った関東平野の地形を見て、ものすごく納得した。
東京は山の手と下町に分かれているのも知識としては知っていたが、実際にどのくらい高低差があるのかは知らなかった。でも、この図を見ると全然違うのがわかる。さらに、山の手は川越や春日部なんかより標高が高いのも一目瞭然。
武蔵野台地、という用語は知っていたが、この台地の標高が伊勢崎や宇都宮とあまり変わらず、町田や八王子がそれより標高が高いことにも驚いた。群馬、栃木より、東京山の手のほうが山だったんですね、、、
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2 : 目黒川 2023.4.5
さて、なぜ目黒川に驚いたか?
目黒川が桜で有名なのはずいぶん前から知っていたし、20年位前、自転車に乗りまくっていて横浜在住の頃、どんなところか見に行ったこともあった。しかしその時は、コンクリートで固められた水路みたいな川の何がいいんだろう、としか思わなかった。
それが今回、あらためて地形図を見ると、東京山の手は、大きくは多摩川と荒川に挟まれた台地。その台地を削る川は、一番は北側の神田川。二番が南側の目黒川で、三番の渋谷川以下はほとんど目立たない。目黒川って、実は大河川だったんだぁ、、、
神田川というのは御茶ノ水あたりの人工河川だとばかり思っていた。皇居の堀の関連で掘削して作られたという話しでしかこの名前を見たことないように思う。しかし、源流はまだ知らないけど、井の頭公園から流れている大河川だということを今回知った。
そして、目黒川も本来は蛇行をしていた大河川だったとは。
さらに、天空庭園に行ったとき、気になるものを見つけた。現在流れている目黒川の水は自然の水じゃないって。これについてはまた別途書くが、これもまた今の東京を象徴する姿なのか、と思い知った。
地形の話しからそれるが、「目黒区の歴史」という昭和53年発行の本を図書館で見つけたのでパラパラ眺めてみた。目黒というのは江戸時代はお殿様の鷹狩りの遊び場だった、というのは落語のサンマと鷹番などの地名から知っていたが、その際の住民の使役が厳しかったことは知らなかった。また、幕末に砲薬製造所を作ったことはいろんな本に出てくるが、事故があって大被害があったことはこの本で初めて知った。
ほかにもいろいろ興味深いことが載っていて、ますます目黒にはまってます。
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3 : 玉川上水 2023.4.12
『玉川上水』は江戸時代の上水用の水路、くらいの知識しかなかった。多摩川から台地の上を引いているらしいとは思っていたが、そもそも地理が頭に入っていないので、そのすごさを知らなかった。いろんな本に、「標高差100m、全長43km」という数字は載っている。でも、全然ピンとこない。だから何? って感じ。
ところがこのたび、例の地図を見て驚愕。
東京都水道局のwebページにはこんな記述がある。「羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線(尾根)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。」
ほとんど平坦に見える台地の上を自然流下するように、『段丘を這い上がり尾根筋を巧みに引き回す』には、精度の高い測量データが必要。当然、取水口は終点の四谷より標高が高く、四谷までの尾根筋はずっと下り勾配であることもわかっていたはず。
この江戸時代初期にすでに相当精密な地形情報を把握していたことにあらためて感服。
ところで、都内に関することで何か気になって検索すると、文献がいっぱい出てくる。玉川上水に関してもさぞたくさんあるんだろうなと思って検索してみるが、建設に関するものはほとんど出てこない。ほぼ唯一と思われる「玉川兄弟:中央公論社(杉本苑子,1997)」も、資料がなくて書くのに困った、という後日談が出てきた。なるほどね。記録がないのは残念。
この本は近所の図書館にあるようなので、これから読んでみる。
現地見学記
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4 : 神田川 2023.4.28
東京の地図、というと、頭に浮かぶのはいまだに国電の路線図とこのCM曲。
丸い緑の山の手線♪ ~真ん中通るは中央線♪
Googleマップを見ても起伏がないから、地名を探すのが大変。
神田川にしても、お茶の水あたりの人工堀だと思い込んでいたので、井の頭公園まで続くのを知ったのはごく最近。それで、あらためて地図を見ていていろいろ納得。
市ヶ谷、神楽坂あたりにある堀は、お茶の水の神田川とつながっているから、そっちも神田川だと思っていた。
駿河台とか目白台とかは、台の字がつくから台地だろうとは思っていたが、この地図でほんとに台地だったと初めて実感。
早稲田大が「都の西北」というフレーズは知っていたが、ほんとに皇居の北西にあり、また意外と皇居に近いことを認識。国電の路線図では、高田馬場ってもっと北の方にあって遠い印象だったのだが。そして、神田川は目白台から見下ろす位置を流れ、早大はその神田川の低地に位置しているのに驚いた。
フォークソング「神田川」の作詞者が早大出身だったと記憶していて、これは神楽坂あたりの風景だと思い込んでいたが、ずいぶん違っていたようだ。
東大が本郷という地名のところにあるのは知っていたが、赤門と雷門はよく一緒に出てくるので、東大ってのは浅草の近く、下町にあるんだと思っていた。それが駿河台に続く台地の上で、しかも本郷台地という名前のところだったとは、、、
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5 : 横浜の台地 2023.5.21
3月に転居して転居挨拶状を出したら、「地形に興味あるんだったら、災害食学会の現地見学会が横浜であるから来い」とお誘いしてくれた先輩がいた。“災害食”なんて聞いたことない用語。漢字の誤変換かと思って調べたら、東日本大震災のような大規模災害が起きた時、いかに食料を調達して、食いつなぎ、生き延びるかを
研究する学会だそうだ。
今から100年前の1923年9月1日、関東大震災が発生し、直後に火災も発生し、横浜の街も焼土と化した。その時、街中にいて逃げ惑った人(O.M.プール氏)が、地震と火災の詳細な記録を残している。
現地見学会は、その記録に基づいて、火災から逃げたルートをたどろうというものだった。
プール氏は、地震発生時は山下公園近くにいたが、自宅が外人墓地近くの台地の上にあり、まず自宅にいるはずの家族と合流すべく、台地に登ろうとする。しかし、崖にあった100段の石段が崖崩れでなくなっている。回り道して台地に上がり、家族と合流するが、今度は火災が迫っているので、港に停泊していたヨットで脱出するため、崖を降りることになる。その降りた崖が、港の見える丘公園の下の崖だそうだ。
そんなわけで、崖見学をしてきたのだが、驚いたのは、目の前に崖面が連続していること。
「急傾斜地危険区域」というのが法律で指定されていて、神奈川県の指定個所数が多いことは、仕事柄知っていたが、知っていたのは多いということだけで、実際にどんな地形の場所かは知らなかった。
東京の地形はまだあまり知らないのだが、例えば目黒川とか、駿河台とかで、急坂や小崖は見ているけど、急崖が連続するのは見ていない。しかし、プール氏が住んでいたという台地は、急崖で囲まれていた。
地質的には、東京も横浜もそんなに変わらないはずなので、この地形の違いはどうして生ずるのだろう? 東京の地形をまだ見ていないだけなのかな?
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6 : 地形というより広域地理 2023.8.18
江戸の地理・古地形に関するものを見ていると、鎌倉とか駿府とかが頻繁に出てくる。鎌倉は京都から見て関東の入り口で、駿府は静岡県の真ん中あたり、という程度には認識しているが、どうも、距離感というか、土地勘というのか、皇居から見てどのくらい離れているのかイメージできない。それで、よくわかっている北海道と重ねてみた。
札幌と遠別は、東京と新潟くらいの距離、というのは以前から認識していたが、こうして見てみると、関東平野って狭いんですね。
皇居から駿府城って、札幌から旭川の少し先の士別までの距離(直線で約145km)らしい。箱根を超えるとえらく遠くなる印象があったが、札幌から見ると神居古潭峡谷を越えていくイメージか?
成田空港って、都心からかなり遠いイメージだったのだが、距離を測ると東京駅から直線で60kmもない。遠別から稚内まで直線で75kmだから、それより近い。
20年前、横浜に住んでいるとき、冬になると長野や福島のスキー場に行くのにえらい遠い思いをしていたが、距離的には遠別から札幌に行くのとあまり変わらないのか、と思うと、なんか不思議な感覚。
というか、本州ってのは、狭くてごちゃごちゃしているのをあらためて実感。
ついでに、中部地方って、北海道と同じくらいの広さがあったのか。なんか、イメージが変わる。
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7 : 図書館、すげぇ、、、 2023.8.30
近所を散歩する参考として、たまたま目についた本を借りてみたら、明治14年測量の地形図が付録についていた。
今まで、『江戸近郊の農村』という記述は何度も見ていたが、どうもイメージができなかった。しかしこの地図を見ると、明治初期でも村ごとに点々としか人が住んでいなかったことがよくわかる。
道路も、現在の地図と見比べて、ここが旧道かな、と想像していたのが、はっきりわかる。細かく見てて、興味が尽きない。
(後日、この地図は
区立図書館のウェブサイトで閲覧できることを知った)
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8 : 戸越銀座
戸越銀座商店街。名前だけは昔から聞いていたが、どんなところか知らなかった。しかし地形図を見ると、谷間に一直線に作られた商店街でちょっと面白そう。
戸越銀座商店街は、全長約 1.3 kmにわたる都内最長の商店街だとか。なんという名前の川かわからないけれど、単純に川を暗渠にして作った商店街かと思ったら、大きくは違わなかったが、少し違った。
Wikipediaによると、戸越商店街はもともと低地で冠水に悩んでいた。関東大震災後に銀座でレンガが大量廃棄されることになり、それを戸越商店街が受け入れて道路に敷き詰めたので震災からいち早く復旧でき、また「戸越銀座商店街」と命名され、これが全国の○○銀座の名称の第一号になった、とある。
別なサイトでは、「地形的には台地の谷戸、つまりスリバチ地形の川筋だったため水はけが悪く、雨が降ると浸水は日常茶飯事。」と書かれていた。でも、普通に見る地図だとここが川筋だなんて表現されてなくて、わからないですよね。
江戸の範囲は概ね目黒川が境になっていて、戸越という地名は、江戸を越えたところというのが由来らしい。つまり目黒と同じく江戸の町の外側。そのためか、web検索しても江戸時代における戸越の情報がなかなか見つからない。
手元に持っている10冊くらいの坂道・スリバチ地形関係の本を全部見直してみたら、ほとんどが目黒川より北東側、つまり江戸のことばかり。しかし1冊だけ戸越付近を記述しているものがあった(*1)。これによると、江戸時代は川が流れていたというより、藪清水と呼ばれる湿地帯だったそうだ。
それにしても、この周辺(目黒・渋谷・港・品川区)の地形を見ると、なぜここだけに 1 km以上直線が続く谷があるのだろう?
東京の地形を詳しく説明している教科書(*2)がある。これによると、細かい説明は省略するが、目黒川と南にある立会川に挟まれる台地は目黒台と呼ばれ、その北東側の淀橋台および南西側の荏原台と比べると標高が低く、地表面の勾配が大きい。このため目黒台にある川は長くのびるが、後者の台地にある川は鹿のツノのように細かく枝分かれするものが多くなるそうだ。
そう聞いてから地形図を見直してみると、確かに目黒台の川筋は鹿のツノ状になっていなくて、例えば目黒不動付近を流れる羅漢寺川もそうですね。
なお、いつもの地形図では、目黒台は薄黄緑色、それ以外の台地は薄緑色で、標高の違いが色で表現されている。
*1「東京スリバチの達人 分水嶺東京南部編」皆川典久(2020)
*2「東京の自然史 <増補第二版>」貝塚爽平(1979)
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9 : 目黒駅追い上げ事件 2023.12. 8
★ 目黒駅は品川区にある
山手線目黒駅は明治18年3月に開業した。しかし、駅の所在地は品川区。これは品川駅が港区にあるのと同様、知る人ぞ知る有名なことらしい。なお、品川駅は計画されたとき、そこは品川県だった。
当初の目黒駅の位置は下目黒村の目黒不動の近くに計画されていたのに、地元農民の反対で権之助坂・行人坂の上の大崎村に追い上げられたと語り継がれている。それで「目黒駅追い上げ事件」と言われている(目黒区ホームページ『品川区にある目黒駅』参照)。事件の真偽は、資料がないので定かではないとされている。
資料がないのでいろんな人がいろんな推測をしている。それらをあちこちweb検索して見ていたら、興味深いことがいくつかあった。なかでも火薬製造所が気になったので、私もいろいろ想像してみた。
(これを書いた時、ネット検索では追い上げ事件に関して火薬製造所に触れたものを見つけられなかった。しかし3か月後、2012年の雑誌に記述があり、2015年に出版された書籍でそれが紹介されているのを知った。2024.4.2追記)
★ 当初の鉄道路線計画
当初の計画とされるものが、「東京高崎間鉄道線路図(明治15年)」(右図)に載っている。これを見ると、渋谷から南に向かい現在東横線が通っている代官山の谷を通り、別所坂付近から目黒川に達っし、火薬庫と目黒川の間を通っているように思われる。この火薬庫(火薬製造所)は幕末に計画され、明治初めには尾根の上から斜面下の田圃までの敷地が取得されている(資料1)ので、路線は当然それを避けたものになる。
現在の地形図を見ると(下左図)、渋谷川と目黒川の間の尾根の中で一番標高が低いのはまさに火薬製造所位置で、鉄道建設だけを考えるとここを通したいができない。そうすると、下渋谷村から中目黒村に行くのには、現東横線が通る谷を通すのがセカンドベストとなる。
当時の地形図(明治24年修正再版)に火薬製造所の敷地図(資料2)を重ねて、路線を推定してみると、下右図のように火薬製造所と、当時暴れ川で流路の定まっていなかった目黒川との間の狭いところを通ることになる。
当初計画の推定は、三田用水個所はトンネルとし、トンネル長を短くするよう渋谷側はなるべく開削するようにイメージ。当時の線路勾配の基準がわからないが、おそらく法面高が高くなっても法勾配はかなり急に施工するので用地はそれほど要しないと想像する。
【資料1】 安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会,根崎光男,人間環境論集,法政大学人間環境学会,2018
【資料2】 「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」敷地図
★ 追い上げ事件に関する想像
追い上げ事件では、目黒川沿いを通すと機関車から出る火の粉で周りの民家が火事になる、との反対意見があったことになっているが、そうであるなら民家の心配より、火薬製造所の隣を通すなんて考えられるだろうか?
渋谷からきて火薬製造所の対岸を通すために上流側で目黒川を渡れば、正覚寺の門前を通り、その南側の民家を立ち退かせることになるのかな?
最近、「追い上げ事件では住民が感情的に嫌がったのではない。川沿いに線路のための築堤をすると暴れ川の氾濫のもとになる、という根拠に基づいて反対した」というようなことを書いている本(資料3)を読んだ。追い上げ事件については、当時の記録が残っていないからみんなあれこれ想像しているのだが、どこからそんな資料が出てきたのだろう。この本は追い上げ事件を詳しく述べているものではなく、その根拠が示されていないのは残念。
いずれにせよ客観的に地形図を見ると、暴れ川の川っ縁に線路を通すのはリスクが大きそうだし、かつ火薬製造所と暴れ川との隙間のようなところを通すより、地盤がしっかりしている現行のルートの方が適切である、との技術的判断があったのではないかと想像する。
【資料3】 地図バカ,今尾恵介,中公新書ラクレ,2023
★ たらればの空想
ところで、もし当初計画通りに目黒不動付近に目黒駅ができていたら、東横線はどうなっていただろう。玉電は都心に砂利を運び込むのが目的なので渋谷に接続したらしいが、渋谷はまだそんなに栄えていなかったようだ。
東横線は天現寺をにらんだ路線だったそうだ。そうするとそのためには、中目黒から東に向かい、三田用水をくぐる幻の山手線の更に下をトンネルでくぐり、今の恵比寿駅に出て、天現寺に達するのかな。このトンネルは非現実的な気がする(※追記)。
あるいは、中目黒から目黒川沿いに上流に向かい、玉電と競合(並走?)して渋谷に接続するなんてことはあり得るだろうか。現実的には祐天寺の南側を通り目黒川の下流へ向かい、目黒不動付近の幻の目黒駅に接続することになるのかな。
東横線が渋谷に接続していなかったら、渋谷はどんな街になっただろう?
もし幻の目黒駅に接続していたら、目蒲線はたぶん先にできているだろうから、目黒不動付近は今の渋谷のようなターミナル街になったのかな。
東急100年史を見ながら、勝手な空想を楽しんでいます。
(※追記 : これを書いた時、幻の山手線の目黒側は盛土にしているはずなので、その上を高架でまたぐと三田用水にぶち当たり上は通せないと思った。しかし、用水の方は、サイフォンの原理を使って下を潜らせることができるそうだ。そうすると、今の駒沢通りのところに東横線ができていたのかも。)
★ ところで、目黒駅のホーム
ちなみに、山手線開通時は、目黒駅付近で三田用水の下を永峯トンネルという、関東では最初と言われる鉄道トンネルで横切っていたそうだ。
三田用水は権之助坂がある街道沿いにその南側を通っていて、明治44年の地図を見ると目黒駅は街道の北側に、街道から南にトンネルが描かれている。この写真に駅は写っていないので南側から撮影したものと思われる。
山手線目黒駅付近の永峯トンネル(山手線複複線開通記念絵葉書より)
こちらのサイトより引用
また、この写真は永峯トンネル撤去後の目黒駅(山手線複複線開通記念絵葉書 大正14年4月26日)であるが、駅の上に跨線道路橋と水路橋らしきものが写っている。
現在の目黒通りとかつての三田用水と思われ、これも影の向きから南側から撮影したものと思われるが、その橋は駅のホームの上にある。トンネル撤去前のホームの長さがわからないが、南側に延長したのかな?
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9追記 : 目黒駅追い上げ事件 2024. 4. 1
上記を昨年12月に書いた以降、目黒駅追い上げ事件に関してネット検索しても新しく別な視点の記述は見つけられてないが、目黒駅開業時の駅の位置は
現在の位置とは大きく違っていて1890年に移転したという本年1月の記事を見つけた。この時、これは初耳。手元にある明治24年(1891)修正測量の地形図「品川驛」を見ると、現在の位置に目黒停車場が描かれていて、これでは確認できない。本当なのか?
その後、竹内正浩氏の著書にこれに関する記述があるのを知り、資料4の雑誌にたどりついた。これによると、明治18年3月の開業時には現在より500mほど五反田寄りの西五反田3丁目にある徳蔵寺付近にあったそうだ。それが、地元戸長の請願があって明治23年により至便な現在地に移転したとのこと。
当時、台地の上の上大崎村はメイン街道沿いになる。徳蔵寺の近傍にも谷山村という集落があったが、栄え方が違ったんだろうな。
資料4にはルート選定についても書かれている。
まず、しばしば沿線火災が生じていた当時、火薬庫の近傍を鉄道が通過することは避けるべきことだった。
そして当初の計画段階のルートは、上記で私が推定したルートで想定されていたという。それが結果的に現在のルートとなった。その理由についての資料はないのだが、小野田氏は、火薬庫と集落を避けたのだろうと考えている。私の想像と同じで嬉しくなった。
なお、この文献はトンネル建設を主眼にしたものなので地形の高低差や線路勾配について細かく書かれているが、ルート選定には影響していない。私はこれを都立図書館で閲覧してきたが、ルート選定に関しては資料5でほぼ紹介されている。
資料4の雑誌の同号には、資料3の今尾氏も寄稿している。なので今尾氏はこのことを承知だろうと思うが、資料3では触れず、築堤が災いするから反対したとしか書いていない。ということは、やはりそういう記録が見つかったということなのかな?
【資料4】 東京人 No.314,小野田滋,都市出版,2012.8
【資料5】 地形で読み解く鉄道路線の謎[首都圏編],竹内正浩,JTBパブリッシング,2015
【ついでに勝手な想像】 (2024. 4. 2追記)
ルートは火薬製造所を避けたものにしたが、駅は目黒村を意識して低地に設置した。しかし地元民は 「にぎやかな台地の上に移設しろ」 と請願し、それが受け入れられた。これが実際だったように思う。
そうすると、『追い上げ事件』 とはルートを追い上げたのではなく、駅を追い上げたという事実に基づいており、ただ理由は嫌だから追い出したのではなく、望んで動いてもらったということになるのかな。
つまり、「目黒という名前の駅を追い上げた」事実が、後年、「目黒不動付近にできるはずだった駅が台地の上に行ってしまった」に変質し、「ルート変更は住民の反対運動による」という伝説ができてしまったのかなと想像する。
【さらに追記】 (2024.11.19追記)
勝手にした想像をつらつら書いたのだが、私の想像とほぼ同じことを書いている本があった。
「地形と歴史で読み解く
鉄道と海道の深い関係 東京周辺」,内田宗治,実業之日本社,2021
たぶん、少ない公開された資料ではあるが同じものを見ているので、感情を抜いて組み立てればそうなるんだろうなと思うと同時に、想像はけっこう真をついているとも思う。
なお、この本の最後のページに著者紹介があるが、「協力…小野田滋」ともあった。なるほどね。上記資料の人たちはみんなつながっているみたい。
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10 : 等々力渓谷 2023.12. 9
2023年11月に訪れた時は、倒木の恐れがあるということで立ち入り禁止となっていた。しかし、15年前に一度歩いたことがあり、都内の環八のすぐ隣に、まさに深山幽谷のような環境があって驚いた。
なぜ、ここにこんな深い谷が形成されたのだろうか?
貝塚先生の本「東京の自然史」(*1)に、この付近の地形分類図(*2)を示して答えが書かれている。
下左図の地形分類図を見ると、矢沢川と書かれている個所の A面 と示された白色部の幅と、右側の九品仏川付近の A面 と示された白色部の幅が、連続してつながっている。このことは、現在の矢沢川は地図の左上から等々力渓谷を通って多摩川に流れているが、かつては等々力渓谷は存在せず、九品仏川の方に流れていたことを示している。
その頃の矢沢川は、図の等々力渓谷の右側に J, K, H で示した谷のような状態で等々力渓谷の位置にあった。そして、図の左上の現在の矢沢川と書かれているところは九品仏川の上流で、等々力渓谷の位置にあったかつての谷とはつながっていなかった。
谷というのは、水の流れによって少しずつ侵食される。少しずつ谷底が深くなり、谷頭(谷が始まるところ)が少しずつ上流の方へ移動していく。つまり、 K の状態の谷は、年月が経つと J のようになる。更に年月が経つと、谷頭はその上を流れる川に達する。等々力渓谷の位置にかつてあった J のような浅い谷(矢沢川)は、そうして谷頭が九品仏川まで達したので、九品仏川の流れは等々力渓谷の方に行き先を切り替えてしまった。
等々力渓谷位置にあった浅い谷(矢沢川)は、それまでちょろちょろと流れていたのが九品仏川の水が加わり急に水量が増える。また、その谷の勾配は急だった。すなわち流れも速いので侵食する速度も一気に上がった。それでそこに渓谷が形成されることになった。
以下、「東京の自然史」からそのまま引用する。
矢沢川はもとは呑川の支流の九品仏川の上流であったが、等々力付近に南から谷頭侵食をしてきた矢沢川に流水を横取りされたのである。こうして九品仏川の上流を「斬首」した川は水量をにわかに増して下刻をたくましくし、等々力渓谷を作ったのである。田園都市線の等々力駅はこの「斬首」または「争奪」現象の現場に近い九品仏川の谷中にある(11図)。
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※ ここに出てくる「田園都市線」は、開業した時は「大井町線」だったが、この本が出版された1979年当時は「田園都市線」に編入されていた。その後、新玉川線が地下鉄と相互乗り入れした際、田園都市線から切り離され、元の「大井町線」に名称が戻った。
*1 「東京の自然史 <増補第二版>」貝塚爽平(1979)
*2 地形分類図 : 地形の特徴などに基づいて区分した図
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番外 : 濃尾平野の地形 2023.4.16
6~8年前は岐阜県に住んでいて、愛知県のパラグライダーエリアにお世話になっていた。知多半島や三重県のエリアに遊びに行くこともあったが、名古屋市内を下道で通ると信号だらけなので、高架の高速道で通過することしかなかった。先週、初めて名古屋駅から車で市内を通り抜けて東側の山にあるそのエリアに遊びに行ったのだが、名古屋市内が坂だらけなのに驚いた。
濃尾平野は日本一ゼロメートル地帯が広いところ、ということくらいしか知らず、実際にどんな地名のところが平野に属するのか知らなかった。ただ、名古屋市というのは平野の真ん中くらいにあるから当然平坦なところだとばかり思っていた。Googleマップではそんな表現になってるじゃない。
それで、例によって例の地図を見てびっくり。地形的には低地帯から標高が高くなりはじめたところに位置している。名古屋城は標高差10mくらいの崖の上にあって、低地帯を見下ろしている。なるほどね。平野の真ん中じゃなくて、むしろ縁から平野を見渡していたとは。
岐阜市なんて、けっこう内陸だからもっと標高高いのかと思っていたら、名古屋城とほぼ同じ。埼玉の半分が皇居より標高低いのを知ったのと同じ衝撃を受けた。
ちなみに、伊勢湾から岐阜市まで約40km。岐阜市の標高は海抜10数m。玉川上水と同じ距離で、標高差は玉川上水が約90mなのでその1/7か、、、
今、読みかけている本に出てくる人物は、三河武士で、三河一向一揆、長久手の戦いなどが出てきて、この辺のことだったとこのたび認識した。歴史は苦手で、単語は覚えているけどそれがいつどこで何? と聞かれると全く答えられない。でも、地形をイメージしながら地図を見ていると、何となく覚えられそうな気がするのだが、気がするだけかな、、、
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