関東の地形について


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11 : 音無渓谷 2024. 3.15

 音無渓谷は、かつては等々力渓谷と並ぶ都内二大渓谷で、飛鳥山とともに江戸町人の行楽地だったそうだ。しかし今は河川改修が進み、親水公園や緑地として名残はあるものの、「渓谷ってどこが?」となってしまった。


 武蔵野台地を東に流れる石神井川は、現在、王子駅付近で隅田川に流入している。しかし、地形図で谷地形の連続を見ると、不忍池にそそぐ藍染川にそのまま続く。
 そう、かつて、藍染川は石神井川の下流だった。王子駅付近の崖の上(滝野川)で、石神井川は大きく右カーブしていた。右カーブの左岸は、川の流れで削られていく。ある時、左岸の斜面(尾根)はその向こうの、王子駅側にあった崖に突き抜けてしまう。
 すると、石神井川の水はもう藍染川には流れない。そのまま隅田川に流れ込む。突き抜けた時は王子駅側の崖を滝として流れ落ちていても、比較的柔らかい地層(12-13万年の下末吉海進期の東京層)でできている台地なので、どんどん侵食されて、滝が谷となり、さらに両岸がそびえたつ渓谷となっていく。
 石神井川が崖を突き抜けたのは、5~6千年前くらい前の縄文時代と推定されている。

<以下、雑学メモ>
 ここは、鎌倉時代には1477年(文明9年)に太田道灌と戦い、敗れて滅亡した豊島氏の一族・滝野川氏の城址(現・金剛寺)のあったところ。つまり蛇行していた音無渓谷が天然の堀になっていたらしい。
 江戸時代には日光御成道が日暮里崖線沿いの台地の上を通っていたが、音無渓谷は越えられず、王子駅のところでいったん崖下に迂回していた。

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12 : デジタル古地図 2025. 1.20

 古地図をデジタル化して公開しているサイトを見つけた。

 幕末の江戸地図もあったので、地形の凹凸を重ねてみたら驚いた。
 港区は台地に深い沢が入り組んでいるのは一昨年来、歩き回っていて実感していたが、沢で区切られた台地の上の一角が、そのままひとつのお屋敷用地になっている。地形が入っていない地図だといろんな方向を向いていてわけわからないが、そういうことだったのね。

 目黒川は昭和の初めまでは、「今と違って海岸付近で90度北側に流路を変えて八ツ山の方で海に注いでいた」といろんな本に書いてある。しかし、今の地形図を見ても、具体的にどこなのか全くわからない。この図を見て、初めて知った。東海道を越えてから屈曲している。現在の八ツ山通りが目黒川跡地だった。
 屈曲して右岸側は細長い砂州。天塩川の河口と一緒だ、と感激してしまった。
 もっと内陸で屈曲していたのかと思っていた。品川宿が目黒川をはさんで北品川と南品川に分かれていたことは知っていたが、確かに目黒川がここになければ分かれないと納得。
 田町から品川まで鉄道は海上に築堤して通されたのは薩摩藩などの反対で海岸の用地が取得できなかったからだ、というのもいろんな本で読んだが、地図で藩邸の位置を確認したのも初めて。これもなるほどと納得。

 これまでいろんな本を読んできたが、歴史が全然頭に入っていないので時代小説はほとんど読んだことのないジャンルだった。しかし昨年、江戸に興味あるんだったら池波正太郎が面白いと思うよ、お勧めされた。なかなか触手が伸びなかったが、この年明け、剣客商売を初めて読んでみたら、はまってしまった。下町の方は未踏の地なので地図で追うだけだが、山の手は歩いて実際に見学したところが出てくる。
 この地図を見たら、どこの坂を登ったとか、どの道を進んだとか、よりリアルに実感する。楽しくてしょうがない。

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13 : 江戸の町名 2025. 3.12

 江戸の町のうち武家地・寺社地には町名がなく、町人地にしか住所がなかったということを最近知った。
 一方、山の手郊外の台地の上の多くは下屋敷で占められていて、崖下の低地は田畑だったりするということもデジタル古地図サイトを最近に見て知ったのだが、田畑を作っているのは町人で、そこに町名がついているという、考えてみれば当たり前に思えるが、このことには気づいていなかった。

 次はこの辺を歩いてみようかな、と思って地図をあれこれ見ていて、その中の羽沢坂について調べていたら、この名前はこの辺りが羽根沢村だったことが由来だとでてきた。羽根沢村の名前は確か剣客商売にも出ていてなんとなく聞き覚えがある。こんなところにあったのかと思い、あらためて江戸古地図を探してみたら、 切絵図を現代地図と重ね合わせて示すサイトがあった。
 これを見ると、台地の上を占める下屋敷には町名がついていなくて、いもり川の低地部分が羽根沢村になると思われる。西側に尾根を越えて百姓地・畑が渋谷川まで続き、そちらに町名が見当たらないけどここもそうなのかな?
 北側の笄川上流、武家屋敷に囲まれた現青山霊園の西側の谷は、原宿村となっている。

 この尾張屋版の絵図は出典を見ると1849-1862年刊行で幕末のものとなるが、別な幕末の江戸図を見るとこの範囲は麻布村、下渋谷村、原宿村に区切られ、現在の東京女学館の敷地の少し広い範囲に○で囲んだ「羽根沢」の文字がある。それらの村をまとめて羽根沢地区とでもしているのかな。解読不能。

 なぜこんな狭いところで細かく分かれているのかわからないが、いずれにしても羽根沢村そのものは面積が狭く、おそらく住んでいた人もそんなに多くなかったと思われるが、江戸のはずれの村とはそういうところだったのかなと改めて思った。
 さらに思うに、江戸八百八町といわれながらも実際は1700町に及んだというが、下町が細かく分かれるだけでなく、そんな山の手の崖下の谷でも細かく分町していたということか。

(おまけ)
 上記の切絵図重ねサイトは地理院地図とリンクしているため、左上のレイヤーアイコンをクリックすると、いろんな地図を背景に変えられる。しかし、主題の切絵図の透過度を変えられないようだ。上に画面キャプチャーした「大江戸今昔めぐり」アプリでは透過度を変えられて便利なんだけどな。
(どこかにそんな設定があるのかな?)

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