10 : 駿河台周辺 2023.5.1
玉川上水記の途中だが、東京都水道歴史館に行って考えたこと。
ここでは神田川にかかる神田上水の水道橋がどういうものだったのかわかるかと期待して行ったのだが、見る限り、説明が見つからなかった。でも、どうやら木製の掛樋らしい。
このサイトの歌川広重の絵が、拡大して展示されていた。ということは、残堀川を越えていた玉川上水も、木製の掛樋だったのかな、、、 相当な水量だからてっきり石造りだろうと想像していたのだが。
ところで、いつも示している標高を強調した地図。この標高は地面の標高を示している。なので、土を盛って作った土手はそのまま土手の標高が表示され、橋梁部分はその下の地面もしくは水面の標高が表示されている。
水道歴史館の隣に本郷給水所公苑という公園があって、この地図ではここは小高い山になっている。てっきり、ここはもともと小山があるところが残っているんだと思っていた。だが実際は、本郷給水所という施設の屋上庭園なんだって。なんか騙された気分。でもまぁ、土を盛って作った土手の地下に施設があると考えれば、ほんとうは建物の屋上なのだが地面の標高と考えてもいいのかなぁ、、、
それにしても玉川上水を見たあとに見るこの神田川。スケールがまるで違う。これだけの掘削工事をする技術がすでにあるのだから、玉川上水の掘削作業なんて、もう、ただ距離が長いだけのことだったんだな、と思った。
水道橋駅の近くに、「神田上水懸樋跡」という石碑がある。道路沿いにあるらしいので、Google Streetで丹念に探したのだが、見つからなかった。現地に行ってみたら、歩道から少し下がったところにあった。それじゃGoogle Streetで見えないよね。
“駿河台”と聞くと、なぜか“明治大学”が連想される。なので当然、台地の上にある大学、と思っていた。しかし例の地図を見ると、台地の下? 台地の縁?
行ってみると、台地から下がる坂に建っていた。坂も確かに駿河台の一部だから連想は間違えてなかったのかな。
駿河台を歩いたのは、多分、人生初。広大なイメージがあったが、意外と狭いことを知って、なんだか拍子抜け。
「大手町川端緑道」なるものも初めて知った。
錦橋から神田橋までは、今まで歩いた都内の緑道とはまるで印象が異なり、ほとんど緑がない。“緑道”と称するのは詐欺じゃないのかな。
神田橋から鎌倉橋は、緑もあったが、“Eco Museum”なる奇妙なものが並んでいた。都会と自然の共生を諮ろうとしているのかな。わからなくもないけど、気味悪く感じた。
また、変な模様がついた指を突き立てたようなオブジェが立っていた。なんなんだろう。意味わからず、これも薄気味悪い。
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11 : 玉川上水(小平監視所) 2023.5.9
立川断層から西武拝島線の玉川上水駅近くまでの約2km弱を歩いてみて、現代の水路沿いを歩いてみてもなんだかなぁ、という気になってきた。でも、まぁ、小平監視所まで行ってみようかな。
小平監視所は野火止用水の分水口でもあるので、昔から水番所かなんかあったところなのかな、と勝手に想像していた。
現在、羽村取水堰から取り込んだ多摩川の水はここまで玉川上水を流れ、ここから東村山浄水場まで配管で送水される。逆に多摩川上流水再生センターから高度処理された下水が送られてきてここから下流に流していることは、すでに勉強していた。それで、ここには何か昔のものがあって、その跡地に監視所が作られたのかなと勝手に思っていたのだが、、、
単に分水口だったというだけで、何があったというわけではないようだ。「監視所は昭和38年から運用しています」という説明看板があるだけだった。
監視所の下流側に回ってみると、『甦る水』『清流の復活』など、なにか誇らしげで仰々しく整備されていたが、なんだかなぁ、、、 昭和の末に相当ひどい状態だったけど、それをここまで戻したんだぞ、と主張したいんだろうけど、それはそれで素晴らしいことだけど、その前にひどい状態になっていたことが悲しい。
なお、この東京の川のひどい状態は、まともな下水道整備をしなかった中世フランスの姿に近いらしいことを、このあと知った。
監視所の下流側に回ってみて、清流復活に関してはなんだかなぁだけど、水路は、おそらくは上水掘削時の素掘りのままの状態が残っていて感激。
玉川上水は基本的に、関東ローム層を掘って作られている。普通の土だったら、垂直には掘れない。しかし関東ローム層は火山灰起源の、いわば特殊な粘土。粘土は粘着性が高いので、垂直に掘り込んでも崩れてくる恐れが小さい。ここにはまさに垂直の壁が続いている。なるほど、こんなふうに掘っていたんだ。
ここから玉川上水として残してある最下流の浅間橋まで、部分的にはコンクリートなどで補強したりしているが、けっこうこの素掘りの状態が残っているそうだ。500年近くもこの垂直な掘削面が残ってるなんて、これが関東ローム層なんだな。
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12 : 玉川上水(水番所) 2023.5.10
小平監視所は水番所(水衛所)があったところと、勝手に間違えて思い込んでいたが、違ってた。
この水衛所(すいえいじょ)とは、“水番人”が常駐し、玉川上水を流れる水量の確認・周辺の巡回・落ち葉の掃除などをし、江戸市中への上水を管理していた場所で、江戸時代には奉行の支配下で水番所(すいばんしょ)と呼ばれていたそうだ。
玉川上水事典には、『昭和40年、淀橋浄水場が廃止された時、芥上げや水路監視を行う水衛所は、熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸にあった』とある。最初の熊川は水喰土公園付近、砂川は西武拝島線玉川上水駅の少し上流部にあったらしいが、現地ではわからなかった。たぶん、現代版水路に造り替えているので痕跡もなくなっているんだと思う。
小川水衛所跡は一橋大学の近くにあり、最近(たぶん平成24年)に作られた木製のテラスのようなものや、四阿なんかもあり、しっかり、ここが水衛所跡だよ、と主張していた。テラスがあるところは整地して石積みで囲んである。ここに建物が立っていたと想像するのだが、説明は見つからなかった。
境水衛所跡は、境浄水場の上流700mくらいにある境橋のすぐ下流にあって、史跡として平成24年度に整備された。ここは千川分水の分水口にもなっている。
すぐ隣には 「玉川上水の碑」 という立派な石碑が立っていた。なぜこの石碑が唐突にここにあるか説明もなく、意味不明。
久我山水衛所跡は、地図によると兵庫橋の少し上流にあったことになっている。その付近をキョロキョロしたが、看板のようなものは見つけられない。兵庫橋の近くの看板には、現在位置の印の隣に「久我山水衛所跡」の文字がある。水路をのぞき込むと、他の史跡の場所にあるのと同じスリットが設置されている。わかるように整備はされておらず、看板もないが、ここが水衛所跡らしい。
熊川から久我山までの距離は約24kmで、ほぼ6kmの等間隔で水衛所は設置されている。
6カ所目の和田堀という地名がどこにあるのかわからなかったが、久我山から約6km下流をさがすと、東京都水道局和田堀給水所があった。ここは玉川上水から淀橋浄水場への送水路があったところだそうで(Wikipedia)、まだ見に行っていないが、この近くに和田堀水衛所があったものと想像する。ここから四谷大木戸までも、ほぼ6kmになっている。
このほぼ6kmという数字は、私が地図で測ったから全部が等距離かわからないが、もしかしたらかなり正確に一里半の等間隔に配置されていたのかも。
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13 : 玉川上水(四谷大木戸) 2023.5.11
玉川上水の終点にして、江戸市中への出発点。
その四谷大木戸があったという四谷四丁目に向かって、四谷三丁目から新宿通りを歩いた。案外と登り坂。四谷四丁目の交差点は、ちょうど小山のピークのように最初は見えた。あれっ? なんか変だな、と思い、交差点に立って改めて新宿方向を見ると、やっぱり向こう側がわずかに登り坂。なるほど、この交差点箇所が、ちょうど坂道勾配の変換点になっていた。
つまり、ここが江戸市中を見下ろす最高標高地点ということなのかな。武蔵野台地の尾根筋を緩やかに流れてきた上水が、ここを起点に江戸市中に配られる様子が見えるような気がした。
すぐ近くに、新宿御苑の大木戸門がある。Google Mapによると、この辺に「旧大木戸門衛所」があると出ている。これも玉川上水関連のものを移設してきたのかと思って寄ってみたが、何も説明するものがない。帰宅して検索したら、昭和2年に作られたそもそもが新宿御苑の門であり、玉川上水とは関係なかった。
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14 : 玉川上水(地形の高まり) 2023.5.13
これが玉川上水に関して一番興味があり、不思議に思ったこと。
武蔵野台地の地形は多摩川の扇状地で素直に東にゆるく傾斜しているので、基本的には水路は直線的に計画できる。掘削する形状は、平均的には底辺3m、上辺5m、高さ3mくらいなんだそうだが、今回歩いた中では2か所、地形が高くなっているところをわざわざ深く掘って通過しているところがあった。通常は、深く掘れば余計に手間(=費用)がかかるので避けるはず。
そのひとつは、水喰土公園付近。ここは水を吸い込まれてしまうところをやむなく迂回したと考えられるので仕方ない。
(なお、これは違うらしいということを後で知った。)
もうひとつは、井の頭公園の南側。ここは標高が少し高くなっているが、そこを蛇行しながらわざわざその高まりの中を通過している。意味が分からない。たまたま、松影橋の脇で土留め補強工事をやっていた。仮設と思うが、積んであるふとん籠の高さがひとつ50cmとすると、10段あって、その上に人の高さくらいの法面があるから、掘削深さは7mくらいとなる。平均の2倍以上の高さ。単純に手間も2倍以上になる。
一応、現地にあった看板には、こんな意味不明の説明があった。
「これ(蛇行)は、この地域が入り組んだ複雑な地形をしており、その中で少しでも高い地点を選んで水路を引いたためです。」
複雑な地形はその通りだが、高い地点を選ぶ必要はなく、等高線なりにもう少し北側の標高の低いところを通せばいいはず。北側に寄せると神田川に漏水すると懸念したのかな。むしろ南側を迂回したほうが良かったように思うのだが。
そう思いながら地図をよく見直したら、上水の北側で地形が緩くなる付近がくぼんで、溝があるように見える。地図の精度がこれ以上ないのでよくわからないが、水喰土公園と同じく、もしかしたら最初はここに掘ったが漏水したから作り直したのかもしれない。
もう一度、今度はこれに注意して見に行きたいと思うが、でも今は住宅が立っているところのようだから、わからないだろうな、、、
以下、全くの余談。
土留め工事をしていた作業員が通行人を誘導するとき、最初は違和感なく日本語を話していると思った。ところがその直後、作業員同士で聞いたことない言語で会話を始めた。ベトナム語か? 彼らも技能実習生だったのかな?
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14-2 : 玉川兄弟の物語 2023.5.17
玉川上水路を地図にトレースしてみて、それが地形的に絶妙なルートであることに感動した。それで建設に関してネット検索すると、あまりでてこない。とりあえず、とっかかりとして『玉川兄弟(杉本苑子著)』を図書館から借り、概要を知った。ただ、小説としては面白く感動ものであったが、たぶん、ほとんどがフィクションなんだろうと思った。
その後、上水路周辺の説明看板や、羽村市郷土博物館、水道歴史館の展示を見たが、共通する説明は、「諸説いろいろあるが建設時の資料はほとんどない。〇〇が有力と考えられている。」という文言。
先日、恩田政行氏の玉川上水に関する冊子(1995~2004年)を図書館で見つけた。それには私が玉川上水に関して想像していたことの多くが裏付け資料を示しながら書かれていており、驚くとともに、やっぱりか、と納得した。ただしこの恩田氏の主張も諸説のひとつなので、正解なのかはわからない。
ごく大雑把に要約すると、通説では 『玉川兄弟が主体になって作業を進めたが、二度の失敗で予算を使い果たし、残りは私財をなげうって完成させた。』 となっているが、実際は 『玉川兄弟は優秀な技術者ではあるが、幕府工事の単なる請負業者。二度の失敗は兄弟を貶めるためのちに書かれた虚偽で、予算を使い果たしたとすればそれは幕府への賄賂のため。』 というもの。そして、現在あちこちで見られる「〇〇が有力」との説明は、事実と異なる地元贔屓・地元PRの文言だとも。
私の興味は、「二度の失敗は虚偽」ということの説明。
一度目は、当初の取水口は府中に設けたが、現在、「かなしい坂」と呼ばれている付近で導水が地中に浸透してしまったということについて。地形図を見て、標高的にこの場所から台地の上まで水路を引くのは無茶だと私も思っていたが、恩田氏はいくつか具体例を挙げたうえで、「いつの世でも水が低い所から高い所へ流れた例(ためし)はありません。」と書いていた。ほかの理由は、導水するならその先もできていたはずだが、ルートが示されていないし痕跡もない。取水口に当時は村はなかった、など。
別な書籍で、近くを流れる野川と合流させ堰を作ってダムアップさせる計画だった、というのも読んだが、これも非現実的だ。
二度目は、水喰土。現在、水喰土公園にある堀跡が失敗した場所とされているが、ほんの少しルートを変えるだけで水が浸透しなくなるのか、というのと、予算を使い果たす理由にするには距離が短かすぎるのでは、と思っていた。
恩田氏は、
実際は水が喰らわれたのではないという論文を紹介している。これは、当初は堀跡のほうを通そうと掘削していた。現代の土質的、水理的な調査結果では、水が浸透するようなところではない。しかし工事途中で、水路の勾配がその計画だとその先の段丘面上に導けないことがわかり、段丘崖に突っ込むように設計変更したというもの。地形の高まりを突っ切っている理由も明確で、説得力ある論文と思う。
失敗と言えば失敗であるが、その理由として水が浸透したというのは虚偽のようだ。また、この論文では、当時、かなりの測量精度があったことを示しているが、それだけの測量技術があったのなら、一度目の失敗などありえないよな。
気になって江戸時代の測量術に関する文献も探していくつか見てみた。内容は私には理解できなかったが、かなりの水準だったらしい(後日、気力があれば整理して紹介する)。
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15 : コミュニティバス 2023.7.5
3月に渋谷で『ハチ公バス』なるかわいらしいバスを見つけたことはすでに書いたが、その後、『はむらん』に乗る機会があり、また『CoCoバス』『Bーぐる』を街で見かけ、これらのルーツは『東急トランセ』であることを知った。
コミュニティバスができた経緯などはハチ公バスのWikipediaが詳しくてわかりやすいが、そもそも住宅街の狭い道を通ることを前提に計画されているので、路線決定には住民の同意など、簡単ではなかったようだ。また、初期には対向車や路上駐車があった場合の対策として交通整理員が添乗する区間もあったとか。
先日、渋谷で用を足した後、時間があったので、ハチ公バスの『春の小川ルート』という巡回コースを、観光バス代わりに乗ってみた。約1時間半で、料金100円。
台地の上を走る路線なので、観光的には国立競技場が見えた程度であまり面白くなかったが、狭い道路を走るのは、乗っていてはらはらした。また、ゲートをくぐってケアセンターの玄関前に乗り付けるのは、さすが。
そのあと、『夕やけ小やけルート』で中目黒方向に向かったのだが、代官山駅の手前の狭い道で、 PORSCHE が路上駐車していた。バスはその手前で停まり、クラクションを鳴らす。しかし運転手はでてこない。あまり待っていられないので、たぶん、意を決してそろりそろりと脇を通り抜ける。
バスの運転手なんて、やるもんじゃないですね。
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16 : 坂道巡り 2023.7.12
この散歩シリーズ(って、シリーズにするつもりはなかったのだが)の発端は、目黒川周辺の坂道だった。梅雨入りで湿気と暑さにめげかけたが、雨が降らないので再開。
名前の付いた坂道には説明札(札というのかわからんが)があったりして、けっこう楽しみながら巡っている。十七が坂では、通り道に現代彫刻美術館の野外展示場があって、寄ってみたら色っぽいお姉さんがいっぱいいてドキドキしたり、、、
先日行った祖父母のお墓は、日向坂にあった
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17 : すずめのお宿緑地公園 2023.8.10
目黒・世田谷というと高級住宅街というイメージが強いと思うが、宅地化が始まったのは第二次大戦のころで、それまでは竹林と田んぼと畑が広がる郊外の農村風景だったという。実際、私の祖父は、大戦が始まって、世田谷なんて田舎なら空襲はないだろう、と大田区蒲田から引っ越したので、私の本籍は住んだことないけど世田谷区になっている。だがその後、東京大空襲があり、やっぱり危ない、と私の父は愛知県に縁故疎開したそうだ。
戦後、農地や竹林はどんどん宅地化したが、『すずめのお宿緑地公園』 として目黒区が管理保存している公園がある。公園として管理され始めたのは昭和56年からだが、それまでは私有地だったという。見事な竹林。
園内に古民家も保存されているが、これは少し離れた緑が丘に280年前に建てられたものを移築・復元したものだそうだ。私以外に見学者がいなくて管理人さんは暇だったのか、いろいろ熱弁してくれた。梁や大黒柱は280年前のもので、良質な木材がわかってた。当然釘は使ってなくて、関東大震災にも耐えた。竹は成長が早くて、管理しないと竹林もダメになっちゃう。夏でも古民家の中で間伐した竹をストーブで燃やして、煙で家中を燻さないとダメ。など。
竹林が広がっていたこともあって、目黒の名物と言えば、『たけのこ』だったらしい。そう言われればどこかでそんなこと聞いたことがあるような。いつの時代までそうだったんだろう?
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18 : 聖徳太子 2023.8.16
目黒区の隣の世田谷区には、太子堂という地名がある。そこにある円泉寺という仏教寺院には聖徳太子を祀る太子堂があり、付近の地名はこの太子堂にちなんでいるという。
ところで、その聖徳太子、近年では歴史の教科書から名前が消えかけてきているらしいのだが、今どうなってるんだろうかと思ってwikipediaを見たら、なんだかいっぱい記述されていて、結局頭に入らなかった。
ただ、聖徳太子虚構説は現時点で完全に否定されていないらしい。ということは、今後、これが実は有力説だ、なんてことになったら、全国にある太子堂はどうなるんだろう?
全く別な話だが、円泉寺の隣に林芙美子の旧居があったそうだ。その説明文を読んで、初めて壺井栄が女性だと気づいた、、、
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19 : 代官山から広尾方面 2023.9.3
8月は暑くて歩いていられず、自転車で流していたのだが、9月になって連続猛暑日も途切れるというので、久々に歩いてみた。代官山から恵比寿を通って、広尾・麻布方面を約3時間で8.5km。
港区の台地は、実は目黒の台地より時代的に古く、そのため坂の分布密度も高い。また、江戸時代の目黒は農村だったが、港区は武家屋敷で土地利用が異なることもあって、道路の雰囲気も全く違う感じがするのに驚いた。
また、大使館があちこちにあり、ちょっと緊張。建物も、目黒よりグレードが高いような気がする。でもそれより、目黒では見なかったのだが、ぴしっとした服装でハイヒールのお姉さんがカツカツと歩いていたりして、目の保養にもなった、、、
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