東 京 散 歩


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30 : 九品仏-等々力(国分寺崖線 その2) 2023.12.3

 先月、等々力から二子玉川まで歩いたとき、国分寺崖線を巡る『おもいはせの路』なる散歩ルートがあることを知った。その時は等々力渓谷から北西側を歩いたので、今回は南東側を歩いてみた。一部、六郷用水の方に寄り道した。
 ここに示す案内図は九品仏駅の隣にあったもので、いわゆる普通の案内地図だが、これだとどこに崖(坂)があるのかわからない。しかしいつもの右上の地図を見るとわかると思うが、崖の上り下りや谷越えをする、かなり起伏に富んだコースだった。
 ついでに言うとその地図では、浄真寺(奥沢城)も地形が高まったところにあることがわかる。

 駅から環状八号線へ行くと、九品仏歩道橋がある。上がると反対側の公園にそのまま入れる。行ってみると、遊具のない広場となっていて、子供が凧揚げして走り回っていた。地形的には周辺にある古墳みたいに盛り上がっており、もしや、と思ったが、実は玉川給水所配水池の上部に区が造成した公園で、つまり古墳や富士塚などとは全く関係がなかった。


 八幡塚古墳は宇佐神社にあるそうで、駐車場の方から回ってみたが、立ち入り禁止になっていた。

 そこからおもいはせの路をはずれて六郷用水の方に寄ってみる。鯉がうようよ泳ぎ、実をつけた柿や蜜柑が枝を伸ばしていた。


 狐塚古墳は崖の上にあるのはわかっていたが、地頭坂の手前の谷が思った以上に深くてちょっとびっくり。等々力渓谷も、その昔はこんな感じだったのかな。
(等々力渓谷は、ある時から急激に、普通の谷から渓谷に変化していったことがわかっている。その説明図を作ってみたいと思っているのだけど、なかなか手が付かなくて、、、)


 最後に行った御嶽山古墳は、年に一日だけしか入れてくれないんだって。その日を覚えるのは難しそう。


=== 以下、おまけ ===

 目黒通りと東急大井町線が交差する個所は、目黒通りが跨線橋で渡っており、等々力陸橋という名前で呼ばれている。久しぶりに見て思い出したことがある。

 私の本籍は住んだことのない世田谷区だと、以前どこかに書いたことがある。その住所は等々力陸橋のすぐそばで、住んだことはないけど、生活したことはあった。
 昭和39年3月、福岡に住んでいたが、妹を生むために母が入院し、その間、2歳の私は祖父母の家に預けられた。東京オリンピックの直前、等々力陸橋は建設中だった。ほぼ出来上がったころ、建設中の橋に入り込んで遊んだ記憶がある。正確には遊んでいる写真を後から見たから覚えているのかもしれない。


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31 : 港区白金 2023.12.13

 港区白金と聞くと、お洒落なマダムがこぎれいな小犬を連れて散歩しているイメージを持っていたのだが、全然違った。坂道のない、古川(渋谷川 *1)沿いの低地の方だったらそんな人がいたのかな。リンゴとねぎをむき出しのまま抱えたお姉さんとすれ違った。

 お洒落なマンションが立ち並んでいるのかとも思っていたが、それも違った。確かに目黒通りや外苑西通りなどの大通り沿いは高層のビルやマンションが並んでいたが、裏に入ると、昔ながらのゴミゴミとした感じ。狭い路地が入り組み、斜面を活用した(?)住宅。表は1階に玄関があるけど、裏にも2階に玄関があって崖上の道路に面しているなど。
 いつも思うことだが、よくこんな狭い所に密集して建築できるな、と感心する。戸建ての家だと、たいてい玄関脇にカーポートがあるが、小型車がぎりぎり入るようなサイズ。ハイエースだと屋根がぶつかり、ボンネットが道路にはみ出す。まぁ、アクセスする道路が狭いから、そこに住むなら小さな車じゃないと大変だよな。


 本日歩いた白金 2・4・6 丁目のうち、真ん中の 4 丁目は聖心女子学院がどんと占めている。目黒通り側は新しい建物が並んでいたが、裏側の蜀江坂の方はシュロの木立に囲まれた森のようになっていて、都内とは思えない山村の雰囲気を感じた。


 恵比寿駅からガーデンプレイスまでスカイウォークなる回廊があるが、その脇の坂に「恵比寿ビール坂商店会」なる銘板が街灯についていた。ビール坂とはここのことかと思ったが、帰宅して検索したら、先日、それとは知らずに自転車で登った隣の急坂のことだった。

*1 天現寺付近より上流は「渋谷川」、下流は「古川」になる。

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32 : 江戸城外堀跡~霞が関周辺 2023.12.27

 10年ほど前、文科省に 2 週間ほど出張したことがあった。昼、食事しようとうろうろしているとき、中庭?の狭い所に掘り込みがあったので覗いたら、外堀跡なる石積みが保存されていた。その頃は全く興味なかったので、なんか変なものが掘り出されたのかくらいにしか思わずにいた。
 今年になって地形に興味を持ち、地図で皇居付近を見ていて、その時のことを思い出した。例の地図によると、この霞が関の官庁ビル街はまさに台地と低地の境界。外堀を作るのに絶好の地形条件。
 もう一度見に行こうと思っていたが、なかなか用事がない所なので足が向かない。ようやく新橋に用ができたので、これ幸い、ついでにうろうろしてきた。


 台地と低地の境界ということは、そこを横切るところは当然坂道になるわけで、坂道にも名前がついていた。

 国会議事堂を、初めて生で見た。こちらこそ来る用事がないもんね。
 国会前庭なんていう公園があるのも知らなかった。
 日本水準原点がこの辺にあるのは頭の片隅にあった。しかし、一等水準点みたいに石が置いてあるのかと思っていたら、なんと、『日本水準原点標庫』なる、がっちりとした石倉に納められていて驚いた。さすが、保護レベルが違った。


 内堀沿いを三宅坂から桜田門までのんびり歩いたのも初めて。過去にここを含めて皇居周回は何度も走っているけど、周りなんか見てなかったですからね。この日もたくさんのランナーが走ってた。
 内堀の内側の山の上に石垣が築かれているのに初めて気づいた。ぐるっと囲まれているのかな?
 周回コースの歩道上に、100 mごとに都道府県の花の絵が距離標とともに埋まっていた。これは昔からあったのかな。47 都道府県だと 4700 mにしかならないよな、と思いながら歩いていると、花の輪の解説板があった。宮崎県は距離標がなかったので、必ずしも 100 mごとではないらしい。


 日比谷公園内もぐるっと回ろうかと思ったが、なんだか疲れちゃったので、端を通り、約 5 kmで本日のお散歩は終了。

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33 : きぬた公園-岡本-国分寺崖線 2024. 1. 8

 東京都内には、広い狭いはあるけど、あちこちに公園がある。緑がないと言われている東京都が、意地になって緑を作っているような印象すら受ける。素直な私は、札幌の中心街よりよっぽど緑に恵まれているように感じる。まぁ、札幌は中心街の外側はほぼ山か水田になるけどね。

 砧(きぬた)公園は、23区内で9番目に敷地面積が広い公園だそうだ。
 広々とした公園内では、全く都会を感じない。


 公園から東名高速道を越える『公園橋』からは、富士山が見えた。その南側は岡本という地名になる。岡本に入ってすぐ、『Pork岡本』という駐車場があった。書き間違えかと思ってよく見たら、『P』の字に豚の絵が入っている。洒落なのかな。


 しばらく歩いていて、ぞわぞわしてきた。この辺りには、高層マンションがないことに気づいた。立派な門構えの個人の邸宅ばかり。集合住宅もいくつかはあったが、いずれも3階建てだったように思う。高さ制限しているのかな。
 これまで都内で見てきたのは、敷地ギリギリにぎっしり住宅が詰まっていたが、ここは建物同士の間隔があいてゆったりしている。玄関前にあるカーポートも、2~3台とめられるようになっていて、大型の外車と5ナンバーの国産小型車が並んでとめているところもあった。軽自動車は1台も見なかったように思う。
 とんでもないお金持ちしか住んでいない地区らしい。

 岡本地区は、国分寺崖線の上の台地上にある。富士山方向に下る坂から富士山が見えた。と思ったら、脇に『東京富士見坂』なるプレートがあった。ここの豪邸の人たちは窓から富士山を見ながら過ごしているんだろうな。だから高層建築がないのかも。

 崖を下ってしばらく歩いていたら、『旧小坂緑地』というのがあった。小坂さんって誰だろうと思ったのだが、要するにお金持ちの先生で、その別邸だとか。説明板には、しれっと「立地する国分寺崖線を上手く利用した屋敷配置・・・」とある。この辺りでは、『国分寺崖線』という用語は『中央構造線』と同じくらい普通に認識されている用語らしい。


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34 : 江戸城本丸跡 2024. 1.10

 江戸城本丸跡が無料公開されている。

 建造物はいろんなところで見る写真と同じで、「あっ、これか」くらいで感動がなかった。しかし、石垣だけには初めて興味を抱いた。この巨大な石を人力できれいに積み上げるなんて。
 運搬は、瀬戸内や愛知から船で運んだと何かで読んだ記憶があるが、それを何メートルも持ち上げるのだから。ピラミッドやモアイ像などもそうだが、人力ってすごい!!
 門や端部の周辺は石材をきれいに整形して隙間なく積んでいる。それから離れたところは大きさも形も不揃いで小さめの石を間詰めするようだ。




 それよりも、ふだん全く興味のない植物が面白かった。梅林坂にはいろんな種類の梅が植えられている。花の咲き具合が、種類で違うのがよく分かった。



 桜のコーナーには川津桜もあったが、さすがにみんなまだ裸だった。

 竹にも多くの種類があるのを初めて知った。キッコウチク(節が亀甲状)、キンメイチク(黄色と緑の縦縞)、ラッキョウヤダケ(節の間が膨らんでる)など。

 フキが一面に植えられている一画もあった。フキも多くの種類があるのは知っているが、ここは葉が少し厚く、濃い緑色で光沢のあるツワブキが一種類だけ。説明が見つけられなかった。なぜこの種のフキだけがここにあるのだろう? 気になって検索したら、ツワブキはキク科ツワブキ属、フキはキク科フキ属で、ちょっと違うことはわかった。で、特に植えているわけでなく、たまたまここに群生しているというだけのことなのかな。

 ほかにも果樹古品種園、野草の島などあったが、だんだん飽きてきた。最後にもう一度石垣を見て、満足して退去。


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35 : 皇居~江戸城外堀跡(再訪) 2024. 1.10

 本丸跡見学後、大手門から出て日比谷方向に歩くと、先日も見た花の輪のプレートの続きが歩道にあった。最初に見つけたのは 0.9 km 地点の秋田県。勝手に北海道が 0.1 kmだと思っていたのだが、0.5 km地点だった。その先、0.4 と 0.3 kmは花の輪のプレート。なるほど、これなら47都道府県でも 5 kmが埋まる。平成5年の文字も見える。私が皇居をよく走っていたのは平成14年頃だから、その時はすでにあったようだ。
 0.2 km地点は沖縄だった。その先の鹿児島と宮崎は距離標がない。さらにその先に花の輪の案内板。0 km地点がわからなかったが、この案内板が起点なのかな?


 先日、見そこなった虎ノ門の外堀跡へ向かっていたら、『郷土の森』なる、都道府県の木が勢ぞろいしているはずの一画があった。昭和59年とあるが、北海道と青森は立て札だけで木の姿がない。環境が違い過ぎて枯れてなくなったのか?


 外堀跡の石垣展望室は、階段を行けば通るが、エスカレーターに乗ると気づかず通り過ぎてしまうようなところにあった。石材の運搬方法の説明もあり、もっと早くここに来ておきたかった。


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36 : 大井町・海食崖の坂 2024. 1.16

 目黒川の河口は品川区で東京湾にそそぐが、東京湾を向いた崖にある坂の見学。
 いつもの地図は、北東側から光を当てて地形の起伏の影をつけることで立体感が得られる陰影図としているので、南西側を向いている崖は特に黒く影ができる。なので、西向きの崖は急になっている印象を受ける。
 今回の大井町駅から西(海)側に張り出す台地の縁は、地図では真っ黒で急崖に表現されているが、実際、本当に急な崖だった。

 旧仙台坂にある車道は、削り込んでトンネルにすることで緩勾配の道路としていた。


 木の芽坂は、自転車でも普通に登れる勾配だったが、地図で見ると不自然な地形。おそらく人工的に削っていると思われる。実際にここに行くと建物に隠されて、地図で見るような道路沿いの崖地形はわからなかった。また、坂の標識も見つけられなかったが、ストリートビューを丹念に見たら、消防署の向かい側にあった。

 犬坂は、崖面を斜めに横切っている。蛇のように曲がりくねっているとの説明があったが、そうしないと登り降りできなかったんだろうな。



 道ではないが、階段が見えたので近づいてみた。崖上のマンションの私設階段らしい。この崖下に京急本線の駅があるので、マンションの住民にとってはだいぶ近道になるんだろう。


 ところで、品川・大井町というと高層ビルが目立つが、裏道に入ると古くて間取りが狭そうな低層アパートが散見される。これは目黒区も同じだが、お家賃どのくらいなのか、ちょっと気になる。

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37 : 田町-品川の坂 2024. 1.18

 先日行った大井町付近は目黒川の南側。今回は目黒川を挟んで北側の田町から品川までを歩いてみた。すると、目黒川をはさんだだけなのに全然地形が違うのに驚いた。

 貝塚先生の地形区分図(*1)によると、先日の大井町付近の台地は武蔵野面(目黒台)、本日の西側の白金から続く高輪付近は下末吉面(淀橋台)で、時代的に高輪の方が古い台地に分類されている。このため、同じくこの古い台地に属する島津山(その27)のところでも書いたが、坂(崖)が急。
 そして、大井町の方は台地上の面はほぼまっ平らだったが、高輪の方は台地上の面も平らではなく起伏がある。さらに東京湾に面した側も、大井町の方と違って谷が入り組んでいる。
 約5万年くらい形成時代が違うようだが、この差が明確に出ている。


 蛇坂の説明に「付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像される」とあったが、先日の犬坂では「俗称の“へびだんだん”はその曲がりくねった有り様からそう呼ばれている」との説明があった。
 急坂の曲がりくねった道には“ななまがり(七曲り)”という呼称のところがよくあるが、蛇坂も七曲が由来じゃないのかな、、、

 魚籃坂は魚籃寺に由来するという。魚籃寺の門前には水子地蔵の文字。魚籃は魚卵=水子なのかと思ったら、全然違った。魚籃とは魚を入れる籠すなわち「魚籠(びく)」のことで、魚籃寺の本尊が「唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形された」(Wikipedia)からだって。

*1「東京の自然史 <増補第二版>」貝塚爽平(1979)

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38 : 雑司ヶ谷~目白 2024. 2.18

 豊島区雑司ヶ谷からスタート。豊島区に足を踏み入れるのは初めてかな。
 雑司ヶ谷霊園は、平坦な台地上に整然と整理されている。霊園の真ん中を公道が通ってタクシーが走っているのは何か奇妙な感じ。

 雑司ヶ谷霊園の南側斜面の道は、狭くて曲がりくねっている。傾斜も急で、住宅も古いものが多い。傾斜地にごちゃごちゃ建っている。これまで見てきた港区や目黒区の傾斜地とは明らかに雰囲気が違う。しいて言えば品川区の海に面した斜面がこれに近いか? これはこれですごさを感じた。
 また、「この先行止まり」表示がやたら多い。道路を考えず、我れ先にと家を建てたのかな。このあと、神田川側の坂で、行き止まりの黄色い交通標識を初めて見た。こんな標識があったのか。


 谷底は弦巻通り商友会(昔は弦巻川で暗渠化された)で、それをはさんで南側は文京区目白台。この北斜面は傾斜が緩やか(薬罐坂)で、ごちゃごちゃした感じはしない。尾根を越えたら神田川左岸(北側)の南斜面。この南斜面はまた急坂。


 目白台の尾根上の幽霊坂の入り口に「肥後細川庭園はこの先200m」なる看板。そこを進むと幽霊坂の下にあった。肥後のお殿様の下屋敷だったそうだが、都立公園だったのが昭和50年に文京区へ移管、平成29年とつい最近に名称が細川庭園になったとか。


 この神田川左岸の南向き急斜面は、斜面下から横方向に見ると、いろいろ想像されて面白い。斜面上は目白の台地。斜面下は早稲田の低地。例えば、明治以降、角栄氏が台地の上にいて大隈氏が低地にいるなど、いろんな話しがこの近辺であるが、なるほど、こういう地形のところだったのね、と納得した。

 もうひとつ、この南向き斜面に建つ住宅は、敷地に余裕があるのかな。今まで隣同士の住宅がくっつくくらい敷地ギリギリで建てられているのばかり見ていたが、ここは玄関と道路の間に植栽がある。建築法か何かでそういう規制がある地域なんだろうか?


 この日も多くの坂道鑑賞ができたが、標柱のようなものが一つもなかった。説明板はいくつか見つけたが、標柱は東京都の標準仕様というわけでもないのかな。
 その代わりというのも変だが、旧町名の説明板があった。これまであまり見た記憶がないけど、気にしなかっただけか?



 ところで、今これを書いている途中で、大大うっかりに気づいた。
 この目白付近の神田川左岸(北側)は急坂が多いのは事前に勉強済みだったが、その中でも、23区内で階段の坂を除き最も急だといわれる坂道(のぞき坂)がここにあったのを忘れていた!!!
 再履修しなくちゃ、、、

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39 : 道玄坂~松見坂 2024. 2.29

 渋谷駅は乗り換えたり通過したりとよく通るが、繁華街には用がないので意外と駅周辺は歩いてない。以前に道玄坂を横切ったことはあったけど、道玄坂そのものを歩いたことがなかったので行ってみた。

 その前に、渋谷の古城の名残?らしき、金王八幡宮に寄り道。
 八幡宮周辺はさすがに少し落ち着いた雰囲気。ただ、ちょうど昼休み時間だったので、スーツを着たお兄さん、お姉さんがその辺のビルから出てくる。驚いたことに、ビシッとしたスーツにスリッパの若い兄ちゃんも複数。同じ会社の人なのかはわからないが、ちょっと気を抜き過ぎじゃない?

 ハチ公横のスクランブル交差点はさすがににぎわっている。東南アジアからの団体さんらしき集団が、何人もスマホを高く掲げ、おそらく自分たちを写しながら横断している。不思議な場所になっていた。
 道玄坂もにぎやかだったが、外人だらけ。


 坂を上りきると、飲食店がなくなるためか人通りも少なくなる。尾根を越えて山手通りの方に向かう。すると雰囲気がガラッと変わる。旧山手通りまではオフィスビルが並んでいるが、旧山手通りを過ぎるとマンションになる。そして山手通りを越えて松見坂に入ると、急にレトロな感覚になった。古い低層の建物ばかり。道路沿いにはシャッターのおりた店。どこかで見たような光景。と思いつつ歩いていて、思い当たった。まるで田舎町の中心街を通る国道の光景。
 都市計画か何かで新築規制がかかっているのかな。

 渋谷の繁華街のすぐ隣に、こんな田舎の風景があるとは思いもよらなかった。

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