40 : 音無渓谷 2024. 3.15 石神井川下流、北区のJR王子駅の西側。 Wikipediaなどによると、埼京線の上流約200 mにある金沢橋付近から王子駅付近にかけて、かつては深い谷となっており、音無渓谷と呼ばれたという。音無渓谷は、八代将軍吉宗により命名され、昭和の初めまでは等々力渓谷と並ぶ都内二大渓谷だったらしい。しかし戦後の都市化に伴い河川改修が進み、かつての渓谷部分で蛇行した流路は直線化され、ほとんどがコンクリートの垂直護岸となり、渓谷感はなくなったという。 飛鳥山付近では川はその下をトンネルで抜けたので、旧流路を親水公園とし、かつての景勝地をそれっぽく再現しているらしい。蛇行していた旧流路の一部は緑地公園として整備されているという。なので、どんな様子なのか気になって巡ってみた。ちなみに、昭和22年撮影の空中写真を見ると河川改修前の流路がわかる(音無渓谷が形成された理由はこちら)。 ところが、まず親水公園でがっかり。桜のつぼみが膨らむ前の裸の木が並んでいる季節だったこともあるのかもしれないが、どこにでもある、子供が水遊びできるよ、というような空間。とても景勝地の再現とは思えない。 気を取り直して上流へ向かうが、川沿いの遊歩道の川側は高い壁。音無さくら緑地に近づいたころになってようやく壁が低くなり川がのぞけるようになった。でも見えるのは、垂直護岸の川。 さくら緑地の近くには、『松橋』がかかっている。かつて、この地域は松橋という地名だったらしい。橋の欄干は、松の枝をモチーフにしている。 音無さくら緑地を下流から入ると、まず吊り橋がある。初代は昭和29年だそうだが、河川改修前の本川を渡河する橋だったのを再現している。 旧河床部分は、少しは埋め立てられていると思われるが、攻撃斜面は残っていて、かつての渓谷が偲ばれる。斜面の大部分はコンクリート擁壁などで覆われているが、一部自然露頭が残されていて、説明板もある。親水公園より、よほど原風景を感じられてホッとする。 その上流側には『紅葉橋』。欄干はモミジがモチーフ。 この地域は紅葉の名所として知られていて、その脇にある金剛寺は紅葉寺とも呼ばれているらしい。この金剛寺が建てられる前は武蔵の豪族、豊島氏の一族である滝野川氏の居城だったが、築城して間もなく、1477年(文明9年)に太田道灌に攻められ、豊島氏とともに滅亡し廃城となったとか。 その上流側が音無もみじ緑地。急崖だった攻撃斜面をゆるくし、河岸まで降りられるようにしている。跡地利用としては、何とも言えないが微妙な感じ。 この緑地の上流側から金剛寺の方を見ると、蛇行した石神井川の内側の半島状になったところに滝野川城が築城され、川が天然の堀となっていたのがわかる。 さらに少し上流、谷津橋をはさんで左岸にこぶし緑地、右岸にくぬぎ緑地。この地域、かつては『谷ツ(やつ)村』だった。 こぶし緑地は、緑地と銘打っていながら何もない単なる土の広場。しかし、攻撃斜面の名残はあった。なんだか中途半端な印象。 くぬぎ緑地の方は、蛇行跡の雰囲気は残っていた。しかし、こぶし緑地同様、渓谷はがっつり埋め立てられている。 そのすぐ上流側は埼京線。埼京線の上流側の左岸にも緑地公園という名称にはなっていないが、埋め立てられた蛇行跡が、一応、公園とされている。しかしくぬぎ緑地と同様、有効に使われていないスペースのように見える。 ということで、渓谷の面影はさくら緑地でわずかに見られただけで、すっかりつまらない都市河川になっていて残念。 ページ先頭 41 : 南麻布ほか 2024. 3.30 目黒駅追い上げ事件に関連して気になることがあり、都立図書館へ10年前の雑誌を閲覧しに自転車で行った。春を飛び越えていきなり初夏になったので、図書館に着くと汗がだらだら。ついでに坂道見学。 まず行きがけに 「新茶屋坂」 の説明板。この前は何度も通っていたが、説明板があることに気づいていなかった。 図書館への登りは 「新坂」。現地の標柱には 「開かれたのは明治20年代」 とあったが、持っている本(*1)では元禄12年(1699)になっている。 *1 : 坂道散歩なび,坂の街研究会[編],河出書房新社,2017 雑誌の閲覧後、「がま池」 の説明板に寄った。池そのものは私有地の中で見に行けず、また説明も伝説が書かれているだけだった。ただ、この周辺の谷地形のところにはあちこちに池があり、江戸時代には金魚の養殖が武士の副業だったという。谷の湧水地点なのかな。 そして以前にも行っている 「仙台坂」へ。交差点にある標柱の隣に警察官が立っているので、前回は遠慮したが、今回は声をかけて、少しどいてもらって写真を撮った。 「奴坂」 「阿衡坂」 「釣堀坂」 は、地図にはその名称が載っているが標柱は見つけられず。前二つは歴史的由来があるらしい。釣堀坂は、なぜこんなところに? と思ったが、検索したら 昭和以降だがつい最近まで釣堀があったそうだ。それ以上のことはでてこなかったが、がま池同様、湧水していたのかもしれない。 「薬園坂」 経由で 「絶江坂」 へ。絶江坂では標柱の隣に工事車両が止まっており、警備員が交通整理している。警備員の前で写真を撮っていたら、「この辺は坂道がたくさんありますね」と話しかけてきた。坂道巡りも少しは世間に認知されてきてるのかな? 坂を下り、古川橋を渡り、魚籃坂を横目に国道1号から目黒通りへ。 この目黒通りに入る交差点は 「清正公(せいしょうこう)前」 という名称なのは昔から知っていた。いつも車で通過するだけだったので気にしていなかったが、今回は加藤清正の銅像でもあるのかと立ち止まり、きょろきょろしてみた。しかしそれらしきものはない。近くに覚林寺があるので、そこにいるのかと思ったら、加藤清正の位牌や像が祀られてもいるが、その所以で覚林寺そのものが清正公(せいしょうこう)と呼ばれているんだとか。 目黒通りは清正公前から 「日吉坂」 の登りとなる。この日吉というのは神社かと思ったら、付近に住んだ能役者の名前に由来するという。坂名になるくらいだからどれだけすごい人なのかと、日吉喜兵衛という名前を検索するが出てこない。しかし、猿楽を検索すると日吉(ひえ)大社が関係するらしいので、やはりそれに関連したすごい人なんだろうと想像される。さっぱりわからないけど。 ページ先頭 42 : 日暮里崖線 (1)石神井川とサクラ (2)飛鳥山と一里塚 (3)明治の地図と谷田川 (4)消えた坂道 (5)石神井川が作った坂道 42 : 日暮里崖線 2024. 4.11 上野から北に向かって電車に乗ると必ず目に入るはずなので、東京で一番知られている崖だと思っていた。 ここは新幹線では何度も往復しているが、車窓の景色は意識したことがなかった。 在来線は、たぶん、高校の修学旅行以来乗ったことがない。修学旅行は夜行寝台だったので、当然この崖は見えない。大宮には何度も行ってるが埼京線利用なのでここは通らない。なので今回、初めて山手線内回りで、内側が見える座席に座って乗ってみた。 すると、見えるのはほぼ垂直の壁(擁壁・法枠)。一瞬、斜面にお墓が見えたが、それ以外は壁、壁、壁。ここが元は自然の崖だったとは認識できなかった。そうだったんだ、、、 新幹線であれば、線路は崖から少し離れていて、かつ高架の上なので、認識できるのかもしれない。しかし、以前の私のように意識しなければ見ないよな、、、 そうすると、ここに崖があることを知らない人も大勢いるかも。 車窓から見えたお墓は、谷中霊園だった。この霊園のどでかさと、桜の季節のせいもあるかもしれないが観光客(3割くらいは外国人)がぞろぞろいるのに驚いた。上野に近いからかな。 今回、遠目だけど生まれて初めて肉眼で東京スカイツリーを見た。 (1): 石神井川とサクラ 王子駅で電車を降りたら、まず音無親水公園へ。先月は枯れ木状態だったが、今回は花びらがヒラヒラと舞う状態。サクラはあったけど、やはり前回同様、人工物を組み合わせた川の造形にげんなり。 「日本の都市公園百選」の受賞をしているそうで、都市公園とはなんなんだ? 昭和40年代までそこを流れていた石神井川は、飛鳥山の地下のバイパス水路トンネルに切り替えられ、河道跡が公園として整備された。その水路トンネルを王子駅側から見に行った。 出口のところに架かる王子桜橋から散水していた。地下鉄南北線トンネル内の湧水をここで散水することで、石神井川の浄化にも役立てているとか。都内のほとんどの川水は下水の高度処理水と思っていたので、どのくらいの量なのかわからないが、自然由来の水も少しはあることを知り、少しほっとした。 それにしても、水路トンネル出口の水面には花びらがぎっしり。 花びらというのは、木で咲いていたり、ヒラヒラと舞うまでは美しいが、地面に落ちるとゴミになる。土の上であればほっといても自然に分解されたりするが、アスファルト道路に落ちれば、側溝が詰まるので掃除しなければならない。大通りや公共の土地であれば業者がお金をもらって掃除するからまだいい(だいたいは税金だろうけど)。しかし住宅街で自分の家の前だと、隣の家の大木から落ちてきたものでも自分が掃除しなければならない。毎朝、隣の大木を切り倒してやりたいと思いながら掃除をしていたことがあるので、私はサクラの木が大嫌いです。 (2): 飛鳥山と一里塚 昨年から江戸関連の本を読み始めたが、飛鳥山は八代将軍吉宗が行楽地として音無渓谷とともに整備したと、どの本にも出てくる。江戸の町から日帰りで遊びに行けるちょうどよい距離だとも。 江戸から飛鳥山に向かうのには日光御成道(岩槻街道)が整備されていたが、飛鳥山の手前の西ヶ原に一里塚が保存されている。御成道は東京大学付近(本郷追分)で中山道と分岐するが、そこから一里地点。本郷追分は日本橋から一里地点。なるほど、これがちょうどよい距離か。 以上が、今回の予備知識。 王子駅から飛鳥山に登るのに、足腰弱い人、車いす・ベビーカーにも対応したモノレールがある。倍賞千恵子さんが車内アナウンスしていると聞き、これも楽しみに乗車。 飛鳥山公園は思っていたより幅が狭く、常に車が走っているのが見えるのが残念だけど、それ以外は特に可もなく不可もなし。サクラの木だけでなく、足元にもいろんな花が咲いており、きれいに整備されていたが、まぁ、そんなもんかな。 公園を通り過ぎた先の西ヶ原一里塚は、今回、ぜひ見たかったもののひとつ。『一里塚』という用語は小学校で習って知識としてはあるが、育った北海道には存在しないので、実物を見たことなく、どんなものか想像もできていなかった。 55歳の頃、岐阜県に住んでいたが、昔からの中山道が保存・整備されており、ときおりその旧道を散歩していた。ある時、地図に一里塚と書かれているところを通ったが、別に標柱があるわけでもなし。どうなってるんだろと思いつつ通り過ぎた。その日は車まで戻るのに同じ道を折り返してきて、気づいた。道の両側が人工的にこんもり盛り上がっている。塚ってこれのことだったのか。55歳にして初めて見て、知った。興奮した。 もしかしたら初見じゃなかったのかもしれないが、知らないから気づいてなかった可能性はある。 その時以来の一里塚。Googleで写真は見たけど、ピンと来ない。もしかしたら残念かな、と思いつつ近づいたのだが。。。やはり少し残念。岐阜の山の中の旧道のようには保存されていなかった。説明板があるから面影が残っているのがわかるが、言われなきゃわからない。やっぱりね。 ちなみに、王子から上野まで直線で約 5キロ。寄り道しながら歩いても10キロくらいだろうと想定し、最後は上野公園内を歩いてゴールは鶯谷駅にしようと思っていた。しかし芸大付近で疲れ切ってしまった。なので公園散策はやめてそのまま上野駅ゴールとしたのだが、歩いた距離を測ったら14キロになっていた。 (3): 明治の地図と谷田川 明治30年の地形図と現在の地形を重ねてみた。石神井川の流路やJRの切り通しなど明らかに明治の地形と異なる部分があるのはご勘弁。 明治地形図には一里塚記号がしっかり入っている。そこからゲーテの小径なる名称の通りを歩いて熊野坂に向かった。 熊野坂の説明板には、不動院境内にあった神社に由来するとある。明治の地形図には、その場所には「無量寺」とあり、500 mほど東に「不動院」がある。現在、それぞれは入れ違った場所にあるので、おそらく明治地形図の誤植かな。 熊野坂下の谷田川通りを歩いていたら、「谷戸さんさん児童遊園」が目に入った。「谷戸」の由来と川の暗渠化の説明が書いてある。街歩きをしていると、これは大切な情報・啓蒙だとつくづく思う。ただこの時これを見て、今歩いている谷田川通りが昔の川筋なんだと早とちりしてしまった。地形図を見たら、全然違った。そりゃそうだ。谷田川通りは昔からあった道なので当然川筋を外れている。昭和になって新しくできた道の説明だった。 ところで、この谷田川のある谷筋は、かつては石神井川が流れていた。それがある時(縄文前期頃らしい)、石神井川はそのすぐ上流の滝野川地区で谷壁を突き破って王子駅の方に流路を変えた。 明治の地形図には、逆川の流路が描かれている。これはかつての石神井川で、かつてここは南へ流れていた。しかし流路を変えた石神井川は川底を削って標高を低くしていったたので、逆川の流路でも北側から次第に標高が低くなり、北へ流れる川となって「さかさ川」の名になった。 谷戸さんさん児童遊園付近に標高15 mの等高線があるが、標高15 mが現在の谷田川との分水界となっているようだ。 無量寺坂は明治地形図にはないが大正5年の地形図にはある。おそらく大正8年にできたという隣の古河庭園に関連して作られたのかな。そこを登り、隣の 大炊介坂(おおいのすけざか)を歩道橋の上からながめた。この2つの坂はいずれも昔の石神井川が作った斜面。 つづいて、今回の一番の目的である日暮里崖線へ向かった。 (4): 消えた坂道 明治30年の地形図を見ると、ここには南東から北西へ対角線に『中山道鐡道』(「中山」の文字は図外)が通り、その南側の斜面には 5 m間隔の等高線が描かれている。モチ坂付近で断面図を書いてみると、この北斜面の傾斜は13°(20%勾配)くらいになる(水平距離60-70 m、標高差15 mくらい)。断面図で見るとそれほど急に見えないが、坂道で15%を超えると車が登れなくなる傾斜なので、かなりの急斜面である。 鉄道がこの斜面下を通っているのは、斜面には人家がなく、連続した鉄道用地の取得が容易だったからだそうだ。この頃はまだ路線がひとつだったので、坂道があったところは踏切で横切っていた。ところが複数の鉄道路線が計画されたとき、既設路線の北側には人家があったりして用地取得がむずかしい。なので斜面側を削って線路用地を広げ、45°以上の壁に見えるような 現在の斜面 ができあがった。田端駅付近などは、ほとんど垂直に近い法面が続いている。 この掘削により、坂道のいくつかは跨線橋に姿を変え、ほとんどはなくなってしまった。 ここに載せた図でいえば、蝉坂は少しルートが変わって車道として残っているが、線路横断個所は上中里駅となり、車坂箇所の跨線橋が車道になっている。車坂は、昔からこの名前だったのかな? モチ坂位置には「かつて坂があった」という 説明が書かれた標柱 が建っている。 中山道鐡道と記入したあたりの坂は山手線が切り通しで通ったりしてなくなり、江戸坂はすぐ近くに田端駅ができていてその付近の斜面は大きく地形が改変されている。 さらに図の南の西日暮里駅南側の地蔵坂は階段になって一応残っていたが、日暮里駅北側の御殿坂は跨線橋の車道、紅葉坂・芋坂・御陰殿坂は人道跨線橋で、坂道は消えていた。 (5): 石神井川が作った坂道 石神井川がかつて不忍池のほうに流れていたころに作った坂道たち。 明治の地形図を見ると、上述した逆川と谷田川の分水界付近から谷中付近まで、集落は谷田川の左岸側だけにあり、右岸側は畑地となっていたようだ。この偏りは何か意味があったんだろうか。 与楽寺の南側の坂のすぐ脇の建物の名前に『田端不動坂』と入っているので、この坂の名前かと勝手に思っていたが、後で検索したら『不動坂』は田端駅南口から南西へ登る坂として存在することを知った。今回、事前に知らず、行っていない。残念。 現在、西日暮里四丁目となっている台地は道灌山と呼ばれているが、なぜそんな名前になっているのかはわかってないとか。縄文時代から江戸時代までの遺跡が発掘されているというが、いろいろとありすぎて鎌倉・室町時代の痕跡が上書きされているのだろうか。 ひぐらし坂は、道灌山通り(都道457号)が西日暮里の尾根をがっつり掘削したためにできた坂で、平成2年に地元からの要望で道路の愛称として命名されたとか。日暮里という地名は、元来は新堀(にいぼり)で、それが「日暮里(日暮らしの里)」の字が当てられ、1749年(寛延2年)に正式な地名になった(wikipedia)そうで、「ひぐらし」という呼称も歴史があったことを初めて知った。 ひぐらし坂からガードをくぐって西日暮里駅の向こう側に行こうとしたら、ガードに「間之坂ガード」というプレートが貼ってあるのに気づいた。その時は地図でどの道なのか確認できなかったが、あとで、これはひぐらし坂と道灌山通りを挟んで南側の諏訪神社に登る坂だと知った。これも道路建設に伴ってできた坂なのかな。「間の坂」と書いて「あいのさか」と読むそうだ。 富士見坂は都内にいくつもあるが、もしかしたらここが一番東にあるのかな。残念なことに、今は途中にビルが建って、見られなくなったそうだ。それを惜しんでいるのか、いろんな時期の富士山の写真やら絵図が並べてあったのが面白く感じた。 富士見坂を下って左折し、人通りのほとんどない細い道を南進した。「夕やけだんだん」なる違和感ある名称のところに近づいた、と思ったら、急に人がごった返している通りに出た。えっ、と思って見上げると、「谷中ぎんざ」の文字。ここがかの有名な谷中だったか。写真を見るとそれにも「ひぐらしの里」と入っているが、この時は気づかなかった。その階段は遠めに見るだけで素通り。七面坂へ。 七面坂から御殿坂、そして谷中霊園付近をうろついた後、寛永寺のサクラをチラ見して三段坂へ。標柱にも明治にできた坂とあるが、地形的にも人工的な感じがする。 清水坂の後、上野公園内もうろつくつもりだったが、疲れてしまったのでそのまま上野駅へ向かい、この日は終了。 ページ先頭 |