43 : ログロード代官山 2024. 5.10 恵比寿に行ったついでに、特に目的もなく、これまで歩いたことがないところを歩いてみたら、「LOG ROAD」なる案内板を見つけた。東横線は、かつては渋谷~代官山間は高架だったが、地下鉄と相互乗入れのため、2013年にこの区間は地下に潜った。その線路跡地の一部を利用して作られた散策路とのことで、そこを歩いてみた。220 mと短い区間だったけど。 暗渠の上に作られた緑道的ではあったが、コンクリートの壁が植栽で上手に隠されていて、まぁまぁ心地の良い空間だった。 帰宅して検索してみたら、おしゃれ商業施設として作られたもので、通路がメインではなかった。 土木学会デザイン賞を受賞しており、一応、「かつて線路によって分断されていた東西の街をつなげ、散策路を主軸に周囲から人々が通り抜け、回遊できる歩行者空間とした」とはなっているけれど。 さらに場所的に集客が見込めないエリアなので、「あえて緑豊かで魅力的なパブリックスペースを創った」ともある。実際、検索しても開業した2015年頃の「すごい施設ができた」というような記事は出てくるが、その後の新しいものはほとんど出てこない。あまり流行っていないのかな。 ところで話しは変わるが、この用地のないところでどうやって高架からトンネルに線路を切り替えたんだろう? そう思って検索したら、すぐ出てきた。『STRUM工法』 というのがあって、線路を切り替えるのではなく、あらかじめ線路を支えながらその下を掘削しておいて、作業時間になったら線路自体を降下させるんだって。難しく考えることなかった。 ページ先頭 44 : 岩淵水門 2024. 5.23 横浜市民だった20年ほど前、荒川河川敷で開催されていたフルマラソン大会に、何回か参加していた。でもその頃は地理に興味がなかったので、荒川が関東平野のどこを流れているのか知らなかったし、走ったのがどこだったかも気にしていなかった。 東京を散歩するようになって1年ちょっと。歩いているのは台地ばかりだけれど、低地の方も、荒川と隅田川の区別がつくようになった。細かく言うと変遷が複雑だけど、大雑把にはもともとの荒川が、岩淵水門ができて隅田川になったのを知った、ということか。 ついでに言うと、以前は隅田川と神田川も区別つかなかったのだが、この低地にある多くの川は人工的にもしょっちゅう流路を変え、名前を変えと複雑怪奇であることも知った。低地じゃないけど神田川も一部は江戸川だった、とか。 20年前に走ったのは、この岩淵水門より少し上流の方だったらしい。 荒川知水資料館なる建物があって3階のテラスが展望台になっている。赤羽の町の方が川面より標高低いんじゃないか? という感じすらした。 知水資料館では、日本堤について再認識。今までの断片的でよくわかっていなかった知識がつながった。 赤羽岩淵駅の近くの電柱に、『想定浸水深』が貼ってあった。展望台から眺めた後だったので、海岸じゃなくて内陸低平地では初めて見た気がする。と、この時は思ったのだが、思い出してみると、近所の川の近くにもあったかも。全然危機意識がなかったので、気にしてなかった。よくないな。 ページ先頭 45 : 赤羽 2024. 6.13 赤羽駅西口を出て、まずは『大坂』。狭くて急な坂だけど、けっこう人通りが多い。坂の上には何があるんだろう。 坂の隣は、大規模マンションと公共駐輪場が建設中らしい。坂を上ったところには新しそうなかなり凝ったデザインのどでかい建物。マンションではなさそう。大企業の社屋かな? その間を北に向かうと、建設中の防護壁の一部に、『赤羽台東小学校』の門柱。なるほど、学校だったから広い用地があったのか。検索してみたら、その昔、ベビーブームがあったときに西小学校の別校舎としてスタートし、昭和39年に東小として独立したけどまた児童数が減り、平成17年に閉校になったとか。戦後の赤羽の推移を物語っているのかな。 それにしても、斬新なデザインのどでかい建物は何だろう、と思ったら、『東洋大学』の文字があった。なるほどね。2021年に竣工した建築家・隈研吾氏の設計による新校舎だそうだ。 大学から下る坂は『うつり坂』。その先の八幡神社の脇の『師団坂』。これはともに江戸時代からの古い街道であるとともに、この赤羽台の戦中・戦後の歴史を物語る坂だった。 台地の北側縁の『稲荷の坂』を下る。そして『宮の坂』に寄り道してから『殿山の坂』に向かったのだが、この台地の北側の崖は少し特殊な気がする。地形的には、昔の入間川が蛇行して作った崖のようにも見える。しかし、西南西-東北東方向というこの周辺にない方向でかつ約 3kmもほぼ直線的に連続する。 傾斜も急だ。日暮里から赤羽に至る東斜面は、線路建設のために人工的に切り取られた急斜面だが、北斜面は別に線路があるわけでない。おそらく自然の崖と思うが、東斜面と同じくらいの急勾配。入間川のアタリが強かったのかな。 崖下を歩いて殿山の坂に近づくと、アンカー付き法枠工でビシッと整形された法面があった。都内の崖はあちこち見てきたつもりだが、これほど直線的で長く続く法面を見るのは初めてのような気がする。(日暮里崖線は別) 過去の空中写真を見ると、1945年頃の写真では崖下に民家はあるが斜面は自然のままのようだ。1960年代の写真では民家がぎっしりで、斜面はきれいに整形されている。 この地形に関して書かれている本にはまだお目にかかっていない。ご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えください。 この後に行った『念仏坂』『ふか坂』の説明板等は見つからず。 ふか坂から南に向かい、『かなくさ坂』へ。ここはもともと谷で、昭和の初めころに谷を埋めて作られた坂らしい。都道をはさんでこの谷の続きは、『赤羽自然観察公園』になっている。ここもかつては軍の施設があり、戦後は自衛隊の駐屯地。1999年になって公園として整備されたとか。このため、元来の地形は大きく変えられていたのだが、なんとなく自然っぽく造成したらしい。20数年たって、言われなければ違和感のない、落ち着く雰囲気になっているが、経緯を知るとなんだかなぁ、という感じ。 公園を出たら、『庚申坂』へ。標柱らしきものはないと事前にGoogle情報で知っていたので、確かにないな、と思いながら先に進んだのだが、帰宅して、このあたりの大正時代の地形図を見てびっくり。この谷の南斜面にある『庚申坂』から『弁天坂』まで、江戸時代からありそうな坂名だが、大正以前のこの地域は田圃で人家も道路もない。昭和になってからできた道路だった。踏み分け道くらいはあったのかな、、、 大正6年測図の地形図を見ると、『三日月坂』は描かれていないが、この崖下に建物はある。三日月坂の標柱にあるように、大正3年にできた坂なんだろう。 『中坂』、そしてそのあとの『真正寺坂』は江戸時代からある坂だが、中坂の方は特に説明が見つからなかった。 真正寺坂入口から清水坂に向かって日光御成道(現・都道460号)を歩きだしたら、『稲付村の一里塚』なんて説明板がある。きょろきょろしても一里塚らしいものは見えない。説明板を読むと、「ここから二〇〇mほど北」にあったとある。なんでここにこの説明板? 現地には何も残っていないらしいから、どこでもいいということか? 『清水坂』『馬坂』の説明板(標柱?)は、お金がかかったものだろうと思う。ほかでも時々見かける。しかし、いずれも文字や絵はかすれていたりしてほとんど読めなかったりする。文字が読めなくなった説明板は、路上の障害物でしかない。教育委員会なのか地域振興部なのか、管轄がわからないが、どうして放置しちゃうんだろ。 東十条駅手前に『荒沢不動』があった。何気なく由緒書きを読んだら、もともとはさっき降りてきた馬坂のところにあったのが、線路建設のために移転してきたとか。日暮里崖線部では坂が消えただけでなく、そんなこともあったんだ。 そして東十条駅。地図に『石神井坂』とあったからそれを期待して通ったのだが、それよりその脇の怪しげなお店にすっかり心を奪われてしまった。坂の説明は見当たらなかったが、明治42年測図の地形図にはあるので、歴史のある坂だと思われる。 おまけ編 赤羽駅に着いて、すぐ近くの大坂で標柱の写真を撮っていたのだが、狭い坂なのに結構人通りが多い。坂の上に何があるんだろう。 坂の上には新しそうなかなり凝ったデザインのどでかい建物。マンションではなさそう。渡り廊下なんてのもある。すげぇ大企業だな、と思ったら、『東洋大学』の文字があった。2021年に竣工した建築家・隈研吾氏の設計による新校舎だそうだ。 このあたり、赤羽台という地名だが、事前に地図を見ていて、なんだかへんな区画だなと思っていた。現地の説明板を見て納得した。戦時中には工兵大隊だとか被服本廠などがあり、その跡地が戦後、団地や学校などになったとか。なるほどね。 自転車専用レーン、今まで意識していなかったが、都内で初めて見た気がする。歩道も広いところなのにね。現実的には、車の停車帯になってるみたい。 今回、一番びっくりしたのは、終着点とした東十条駅西口。こんな怪しいゾーンが現存していたなんて、、、 ところで赤羽とは関係ないが、7月に都知事選が予定されていて、選挙掲示板が準備としてあちこちに建っている。私のいる目黒区は縦4段だけど、北区は縦3段になっていた。これも今まで意識したことなかったけど、視線が平等でない。良いのかな? それと、立候補予定者が40人以上いるといううわさがある。もしそうなったら、どうなるのだろう? ページ先頭 46 : 浅間山登山 2024. 6.20 東京23区内の独立峰の多くは、江戸時代の大名庭園の築山だったりする。府中市、立川段丘の真ん中にぽっかりとある独立峰も、地図を見るとなんとなく築山のようにも見えるが、正真正銘の天然の山だった。 公園案内図の説明によると「多摩の台地が古多摩川などで削られる中、小高い丘として残ったもので、堂山(標高 80 m)、中山、前山とあわせて3つの頂を持つ山です。」とのこと。登山口の標高が 52 mなので、標高差は約 30 m。 堂山山頂には浅間(せんげん)神社があり、山の名前は「せんげんやま」。この付近の町名も「せんげんちょう」。 どのくらい人の手が加わっているのか、いないのかわからないが、いい雰囲気の山だった。 下山して次の見学地(府中崖線)に向かっていたら、『人見』の説明板。知らなかったのだが、人見街道というのは鎌倉時代からある主要道で、人見というのは現在は地名に残っていないが、古くからこの付近にあった集落だとか。 江戸の探訪がもう少し進んだら、いずれ府中の探訪もしたいと思っている。 ところで、本日の余談。 府中駅を出たらすぐに、『ちゅうバス』が目に入った。府中市のコミュニティバス。料金100円。そうだよな。 最近、目黒区でもコミュニティバス「さんまバス」が実証運行を始めた。料金は近隣運行しているバスに配慮して230円。なんか違うんじゃない? と思うのだが。 ちゅうバスは3台見かけたが、3台ともオリンピック特別仕様ナンバープレートだった。緑ナンバーじゃない営業バスも違和感大。 北海道ではコスモスは7月から普通に咲いている。しかし東京で、梅雨入り前に咲いているなんて・・・ wikiを見たら、6月から咲く早生品種もあると書いてあった。これなのかな? で、実は本日の主目的は府中市美術館だった。 「Beautiful Japan 吉田初三郎の世界」 とても興味深く、10時半ころ入館したのだが、出てきたら13時半だった。 ページ先頭 47 : 府中崖線 2024. 6.20 府中崖線に着き、斜めに下る坂を歩いていたら、『庚申坂』の説明板。地図には載っていなかったが、おそらく崖と直交する方向の坂が庚申坂だろうと思って写真撮影。しかし、帰宅してから周辺も含めて地図を見返してみたが、歩いた斜めの坂の方が古くからあった道のような気がしてきた。なお、明治39年の地形図には両方の道が載っている。 続いて『かなしい坂』。玉川上水を建設しようとして、1度目の失敗をした場所がこの坂の上方にあり、その責任で処刑された役人に所以があるとも言われている。しかし、最初からこの付近に玉川上水を建設しようとしたという話しはなかったという人もいて、私もそう思う。理由はいろいろあり、そのうちに書いてみようと思っている。 かなしい坂の説明にある『滝神社』は近くにあるはずなのだが、この時はわからなかった。とりあえず『まむし坂』に向かう。崖の縁に着いて、あらためてこの府中崖線とされている崖は、ほぼ垂直なのを感じる。 まむし坂を下ったら、『滝神社』があった。 滝神社の階段を上り、段丘崖の上を進む。崖の縁は道路になっていて、崖下の住宅は、崖(法面)に張り出したテラスを駐車場にして土地の有効利用をしている。そのテラスに車も駐車しているが、テントのような簡易ガレージ?がたくさんあった。ほかでもたまに見かけるが、この地区はやたらあちこちにある。地域の流行なのかな。ただ、結束バンドで柵につないでいたりとあまりしっかり固定していないように見える。台風とか大丈夫なのかな、と余計な心配。 その先は『柳坂』。 『鳩林坂』には説明がなかったが、明治39年の地形図には載っていない。 『八幡道』(やわたみち)を通り、『馬坂』『天地の坂』へ。 『天地の坂』とは珍しい名前のように思うが、そのまま京所道につながり、古くからあるらしい。 この辺りの段丘上には『八幡道』(やわたみち)、『京所道』(きょうづみち)なる古道があった。武蔵国府にたどり着くのはいつになるやら、、、 ページ先頭 48 : 永田町-赤坂-虎ノ門ヒルズ 2024. 8.26 酷暑にめげて引きこもっていたが、昼から外出する用事ができてしまった。どうせ出かけるならと、行ったことのない坂道の予習。昼、家を出たときはめげそうな高温だったが、用を済ませたら夕方で風が強めだったこともあるのか、歩けそうな気温。 16時、永田町スタート。さっそく 『三べ坂』。入ってすぐ右に、華族女学校遺蹟碑がある。坂は予想以上に急な下りでびっくり。少し進むと右に北海道東京事務所。こんなところにあったのか。左は議員会館。そしてつきあたりは 『山王坂』。 議員会館周辺には背中にPOLICEと書いたおじさんがあちらこちらに立っている。日本国もまだまだ物騒なんだな。 なお、議員会館があるところの地形がいびつ。空中写真を見ると、へこんだところは建物で、間の平坦な高まりは駐車場。どうりでね。 『山王坂』 を下ったところに日枝神社。周辺は高層ビルだらけなので分かりにくいが、日枝神社は半島の突き出し部に位置していることを知った。東西南方向は比高が20 mくらいの急崖に囲まれている。 日枝神社の門前に、さざれ石の展示。なぜ岐阜県春日村産なんだろうかと思い帰宅してから調べたら、春日村(伊吹山)の苔むす巨岩を見て詠んだ歌が元になって君が代ができたとか。知らなかった。 日枝神社を出て外堀通りを越えたら、急に繁華街になった。TBSの手前 『サカス坂』 もそこそこの急坂。このTBS周辺もだいぶ人工的に地形改変しているが、日枝神社と同じくらいの急崖に囲まれた半島だったらしい。 サカス坂の突き当りを左折。このTBSの横の尾根道には一ツ木通りという表示があったので気にせず歩いたが、緩やかな登り坂。この一ツ木通りは平安時代からある由緒ある通りだそうだ。そしてあとでこの坂には 『さくら坂』 という名前がついていたことを知った。 その突き当りを左折すると、クランク状の 『三分坂』。この文字の読み方が難しい。「さんぷん」“ふ”に半濁音。銀三分で約100円。「さんぶ」“ふ”に濁音では四分の三両で何万円にもなってしまうそうだ。江戸時代の貨幣制度は難しい。。。 ちなみに、ここもすごい急坂。そして坂下に報土寺。お寺には興味なかったが、しかし説明柱によるとこのお寺もかなり由緒があるらしい。 三分坂を下ったら、そのまま南の 『本氷川坂』 に向かう。あとで知ったのだが、本氷川坂の入り口の角には 『勝海舟邸跡』 の説明看板があったらしい。興味ないのでノーマークだったが、すぐそばを通ったのに気づかなかったのはなぜか悔しい。 本氷川坂を上ると左に氷川神社。木々に囲まれているので都会の真ん中とは思えない。日枝神社もこうだったらもう少し神妙な気持ちになれるような気がする。 突き当りはアメリカ大使館宿舎。どのくらい住んでいるのか知らないが、ご立派。 氷川神社をぐるりと回って 『氷川坂』。こちらはもう普通の住宅地の雰囲気。場所が少し違うだけでずいぶん雰囲気も変わる。 下って右折すると 『転坂』。昔はぬかるんでいて足を取られて転ぶ人が多かったというので急坂かと思っていたのだが、意外と緩やか。当時と勾配も変わっているのかもしれないが、拍子抜け。 続いて次の 『南部坂』 は、坂の手前に 「16%」 の注意標識。この標識はあまり見ないな、、、 で、最初はそうでもないが、下っていくとだんだん急になっていく。でも、本当に16%もあったかな、、、 首都高をくぐって、 『道源寺坂』。木立に囲まれているとやっぱり気分も落ち着いたような気がしたが、隣のスペイン坂をのぞいたら車道が広いせいか、そんな気分も吹っ飛ぶ。わがまま、ってことか。 ゴールは 『江戸見坂』。現代、見える江戸は、ビルの壁。 ページ先頭 49 : 兎々呂城址~駒沢公園 2024.10.27 上野毛で所用があったため、上野毛からスタート。今回は周辺の予習をしていなかったので、最初はなんとなくブラブラしたのだが、坂の上に木立が見えた。近づくと、都立園芸高校だとか。ここは敷地が広く、地図を見ても目立つので、名前は知っていた。なかなか雰囲気が良いじゃない。 校門の脇には「兎々呂城」の石碑。この名前も聞き覚えがあった。なるほど、ちょっとした小山の上で、いかにもお城がありそうな地勢。なお帰宅して確認したら、読み方は「とどろ」だった。「ととろ」と勝手に思っていた。 ちなみに web情報で、「後北条氏に使えた伊豆衆・南条重長が第二次国府台合戦で功を立て、深沢の地を賜った際に築いたと伝わる。重長は本城として深沢城を、出丸として兎々呂城を築いたとされるが、この両城は同一の城との説もある。城があった場所も確定しておらず、現在は園芸高校の校門脇に標柱が立てられている。他の北条方の城と同様、小田原征伐後に廃城。」というのが出てきた。 住宅街の中を駒沢公園方向に進む。とある宅地の間に、私道なのか公道なのかよくわからない奇妙にカーブした遊歩道のような道がある。帰宅してから地形図をよく見ると、建物の向きが道路の曲線に沿っていて、地形図の等高線から想像すると谷があったらしい。 小さな谷を埋め立て、区画整理して宅地化するのは昔からやっていると想像するが、その痕跡がこんなふうに残っているのは珍しいような気がする。地主さん同士の仲が悪かったのかな? その先の呑川緑道を横切り、住宅街の中のゆるい坂を上っていたら、とあるお宅の玄関先にハロウィンの飾りつけ。こんな遊び心のある家があると嬉しくなる。 そして、駒沢公園。20年前にも1年間目黒区民だったことがあった。その頃はアスリートだったので、ここの周回ランニングコースや屋外50mプールにもよく行った。ところが、中央の大階段以外、見覚えのある光景がない。すっかり忘れちゃった。 広場ではラーメンフェスタなんてのをやっていた。食べ比べするのかな。そんな何杯も食べられないだろうに。連日通っていろんなのを楽しむということなのか? 周回路の路面には、ランニングコースと自転車コースが黄色と青色の線で区分されているのを見て、これは思い出した。プールはどこだったかな、と案内地図を見るが見つからない。帰宅してから検索すると、なんと2010年に老朽化のため閉鎖されていたとか。貴重な50mプールだったのに、残念。 ページ先頭 番外 : 上高地(大正池-明神池) 2024. 9. 4 今年度になってアルバイトを始めたのだが、月に1度くらいのペースで長野県に出張している。前回は学校の先生にお話を聞き、県立図書館で資料収集、というインドアなものだったが、今回は上高地の現地調査。30年ぶりの河童橋訪問は会社経費。 30年前は稜線をガシガシ歩いたが、河童橋から下流の大正池などはバスで素通り。今回は、大正池から明神池までの遊歩道沿いで、調査個所はピンポイント。なのでその間はひたすら歩く。 最初は14歳年上の大先輩と、私より少し若いお兄さんの3人で、大先輩のペースに合わせて歩いていたが、途中で大先輩は「バスで戻る」と離脱。するとお兄さん、「だいぶ予定より遅れたのでペース上げましょう」と言って距離と時間で予定を立て直した。無茶苦茶速い。「山道でも10kmを50分で歩けますから」と言う。そんな馬鹿な。 お兄さんはすたすた歩き始めた。全然ついていけない。私もだいぶ衰えた自覚はあったが、ここまで落ちたかとがっかり。ところが後で聞いたらそのお兄さん、六甲全縦走もしているというバリバリの猛者。どうりでね。少し安心。 歩いた総距離は約18km。私はフルマラソンを走ったくらいのダメージ。でもそのお兄さんは、やっとエンジンかかってきた、だって。 ところで、花崗岩というのは地下深くで形成するので、それが地表に出てくるには時間がかかる。なので地表で見られる花崗岩はすべて古い時代のものである、と学生時には学んだ。ところが卒業後の1990年代になって、 第四紀という新しい時代の花崗岩があちこちで見つかったという話題は聞いていたが、具体的にどこ、というのは知らなかった。 今回、そのひとつがここ上高地の、多くの人が見に行くウェストン碑がはめ込まれている岩盤だということを、初めて知った。 本当は叩き割ってかけらを持ち帰りたかったが、上高地は国立公園内で動植物採取禁止であり、岩石採取もあきらめて眺めるだけ。地質学的にはすごい岩なんだけど、そんなことを全然知らずにウェストン碑を見ている人たちが残念。 ページ先頭 |