50 : 小野路宿と多摩丘陵(よこやまの道) 2024.11.24
多摩センターで人と会う用事ができたので、ついでに近くを歩いてみた。
まずは東京都埋蔵文化財センターへ向かったが、駅を出てすぐに動く歩道の斜路。空港には平らな動く歩道は普通にあるが、街中ではあまり見なくて、さらにみんな歩かずに乗っているのになぜか感動。
埋蔵文化財センターに隣接する縄文の森には復元した住居と生活痕。特に興味をひくものはなかった。センター内の展示も普通。多摩丘陵ならではの特徴が何かあるのかを期待して行ったのだが、ただ「ここで発掘されました」というだけで面白くなかった。
駅の近くを歩いていたら、唐突に「地図記号の説明板」というでかい説明板。その近所に住む人に聞いたら、これがポツンとあるだけで、別にここにかつて国土地理院があったわけでもなく、この通りにこのシリーズの説明板があるわけでもないと言う。不思議なオブジェ?
所要を済ませ、バスで小野路宿へ向かう。最寄りの小野神社前バス停へは行き過ぎたところで乗り換えなければならなかったので、少し手前の別所で降りて歩くことにした。手持ちの地図では地形がわからなかったが、別所バス停は谷の中の昔の鎌倉街道筋。小野路宿は尾根を越えた向こう側。とりあえず近道となる道路で尾根を越えて小野路宿へ。この道路の北側に平行して、後で歩く布田道がある。
小野路宿は5方向の街道が集まる谷筋にある、と持っている本に書いてあるが、街道名がわからない。なんだろうと思ったら、現地の案内板にあった。
大山道、神奈川道、八王子道、府中道、布田道
鎌倉街道がない。鎌倉街道は尾根の向こうの谷筋で通ってないのも変だなと思ったのだが、帰宅して調べ直したら、鎌倉街道の古道がここを通っていたことを知った。なんでその案内板には書いてないんだろうと思ったが、よく見たら江戸時代後期の図とある。江戸時代にはすでに尾根の向こうの谷筋に移っていたようだ。
鎌倉街道古道は、その案内板の地図では右下の「関屋の切り通し」と「地蔵」の間の道で、そこから尾根線上を通って北に向かっていたらしい。この道を、新田義貞が鎌倉攻めの時に通ったとか。
小野路宿は里山交流館に期待して行ったのだが、解説パネルが少しあっただけでちょっとがっかり。
小野路宿から布田道の狭い急坂に入る。すぐに分岐。左の方にお地蔵さんが見える。そこが鎌倉街道の古道だった(帰宅してから気づいた)。「関屋の切り通し」と名付けられている尾根に向かって切り通しの続く坂を登る。関東ローム層の丘らしい。今は舗装してあるから歩きやすいけれど、粘土質地盤の急坂なので、かつては雨なんか降ったら足元ぐちゃぐちゃで歩きにくかったろうな。
考えてみるとこの1年半、都内の坂道をずいぶん歩いてきたけれど、全部人工物で固められていた。8月に行った転坂(ころびざか)は「道が悪く通行人がよくころんだ」なんて説明もあったが、実感しなかったのを思い出した。23区内の坂も多くは関東ローム層だからこんな感じだったんだろうと、あらためて路面の悪さが想像された。
関屋の切り通しを越えて坂を下ると、幅の広い谷に出た。多摩丘陵で特徴的に見られる谷戸と呼ばれる地形(こちら参照)。このまま布田道を進むと先ほどの別所バス停に戻るが、北西方向に向かう尾根道があったので、なんとなく気分でそちらに進むことにした。
尾根の上から見えるのは、なだらかではあっても起伏に富む畑と雑木林の丘陵風景。これも東京都内なんだよな。
北西方向の尾根を北に進むと、ほぼ直交する方向の尾根に突き当たった。この尾根筋に平成15年に整備されたという「多摩よこやまの道」を歩くのも、今回の目的の一つ。多摩丘陵には多くの遺跡があることは知られていたが、発掘調査により飛鳥時代や鎌倉時代の道路跡も見つかっており、その一部がこの尾根筋にもあるので、全長約10 kmが整備されたという。
尾根の上の散策路なので、樹木が邪魔しなければ展望もいいよ、と手持ちの本に書いてある。特に、北側の多摩ニュータウンの眺望はいいらしい。
今回、この突き当たったところはちょうど真ん中付近で、ここから東半分を歩いた。勝手に景色を楽しみながら歩けるのかと思い込んでいたが、実際はほぼ雑木林の中で、ところどころ眺望がきくだけだった。適度にアップダウンがあり、ほぼ日陰。ランナーがけっこういた。トレーニングコースとしてちょうど良い環境。
整備されたというだけあって、路面は良いし分岐には標識があり、ところどころに周辺の説明板もあったりする。最も眺めのいいスポットとして紹介されていた「防人見返りの峠」は、確かによかった。でも、もう一度歩きに行きたいとは思わないかな、、、
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51 : 四谷~新宿 2024.11.27
新宿歴史博物館の隣に津の守坂(つのかみざか)があり、これは交差点や通りにも名前がついているくらいメジャーらしい。その西隣に、荒木町の窪地と呼ばれる一級スリバチ地形というのがある。松平摂津の守上屋敷の大名庭園として作られた策の池(むちのいけ)が今も維持されていて、スリバチ地形マニア必見だというので覗いてきた。
想像以上に急崖に囲まれた窪地だった。津の守坂から少し脇に入り、階段を降りたが、この階段がモンマルトルの坂という名前があることは帰宅してから知った。パリのモンマルトルに似てるという。パリを知らないが、こんなところなのか?
北側の仲坂は、おそらく谷を埋めたところだろうと思うが、現在は道路・建物があって現地ではわからない。
津の守坂を下り、靖国通りに出ると向かいには合羽坂。交差点脇にいる河童くんにごあいさつ。こういうのに会えると嬉しい。
新坂から暗坂へお寺の脇を歩いていたら、突然大仏さんが現れた。実際は「大」というほどではないが、突然現れるとなぜか神妙な気持ちになる。
自証院は、尾張藩主・徳川光友の夫人(千代姫)の母・自証院(三代将軍家光の側室)の供養のために創建だとか。
禿坂は富久小の北隣の急坂と持っている本には書いてあるが、現地にはその坂を下って右折したところに標柱が建っていた。標柱の説明では、「坂名の由来はさだかではない」とある。標柱が建つ南北方向の通り(谷沿い)は勾配がそんなにある坂ではない。江戸時代の地図を見ると富久小脇の急坂が描かれており、おそらくこちらが禿坂なんだろうと思う。
安保坂は昭和にできた新坂で、ここに住んでいた海軍大臣の名前だそうだ。
茗荷坂は東長寺の墓地脇の坂。ここでは坂より、墓地の擁壁にがっつり刺さっているロックボルトに目を引かれた。耐震対策だろうけど、こんながっつりやっているのはあまり見たことがない。そして門前にはにこやかなお地蔵さん三体。これも気持ちが和む。
靖国通りをさらに新宿方向に行くと、瓶割坂があるはず。持っている本によると、茗荷坂上の交差点から緩やかな登りで、その先の定覚寺付近の緩いくだり坂だとある。ちょうどその峠付近に歩道橋があったので、そこから眺めてみる。まぁ、よくわからん。
別な本でも、瓶割坂がこの付近にあるらしいけど場所不明、と書いてある。そういうのもあるのですね。
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